共産主義の優位性をアピールした工業の発展
世界恐慌に前後して、スターリン政権下のソ連では、私企業による自由な経済活動を認めた「新経済政策(ネップ)」を1928年に終わらせ、国家主導の下で農業と工業を発展させる「第1次五カ年計画」が進められた。
民間企業がそれぞれ自由に商品を生産して販売する市場経済に対し、政府が一元的に生産量や物流を管理する方針を計画経済という。ソ連は共産主義による国家建設の一環として、主要な産業を国有化し、計画経済を採り入れた。
アメリカでは、農民がせっかく栽培した作物が大量に余って買い手が付かず、価格が暴落するといった問題が多発したが、計画経済の下では需要と供給があらかじめ計算されていたので無駄がない(ただし、企業間の競争原理が働かないため、後年には技術革新に立ち遅れる)。これに加えて、当時のソ連は外国との貿易が少なく、ほぼ一国で独立した経済圏を形成していたため、世界恐慌の影響をほとんど受けなかった。
第1次五カ年計画では、ドニエプル川の下流域で巨大なダムや水力発電所が築かれたほか、シベリアのチェリャビンスクやノヴォシビルスクなど、各地で大規模な製鉄所や工場が次々と建設され、アエロフロート・ソ連航空やシベリア鉄道による交通網も大きく発展した。軍需工業も大きく拡大し、最新式の軍艦や戦車が大量に生産された。アメリカをはじめとした各国が世界恐慌による不況に苦しむなか、ソ連の飛躍的な工業の発展は世界を驚かせ、共産主義の優位性をアピールすることになる。
工業が発展する陰で広がっていた深刻な食糧難
だが、工業が発展する陰で深刻な食糧難が広がっていた。第1次五カ年計画では、すべての農地を国家が管理し、農民を国営農場のソフホーズや共同運営の集団農場であるコルホーズに所属させる農業集団化も進められた。この過程で、クラークと呼ばれた大地主などの富農は、徹底的に財産や私有地を奪われ、抵抗する者は容赦なく死刑やシベリアへの流刑に処された。農民は自分の土地をもてず、真面目に働いても農産物は政府が一方的に収奪してしまうので、労働意欲が低下する。政府の方針に抵抗して畑を焼き払ったり、所有する家畜をすべて殺してしまったりする者も相次ぎ、農業生産は激減した。