宗教者のような生き方が広がっている?
同様に「解放する禁欲」という表現も撞着語法に思われます。通常、「禁欲」は「解放」とは真逆の「束縛」を生み出しますが、イリイチによれば、むしろ「禁欲」を通じて「解放」される、そのような「禁欲」のあり方があり得る、ということを言っているわけです。
私は前著『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)において、私たちの生を、これまでの「未来のために現在を手段化する=インストゥルメンタル」なものから、「現在の行為そのものが現在の喜びとなって回収される=コンサマトリー」なものへと転換させていかなければならない、という指摘をしていますが、イリイチも同様に、節制や禁欲を「手段的=インストゥルメンタル」なものではなく、それ自身が喜びとなって回収される「目的的=コンサマトリー」なものとなるべきであり、それは可能だと言っているわけです。
社会学の始祖の一人であるゲオルグ・ジンメルは、かつて、清貧を宗とするカトリック修道会の一派であるフランシスコ会修道士に見られる至上の幸福と精神の解放は、彼らの「絶対的な無所有」によって成り立っている、という趣旨の逆説を指摘しています。イリイチも還俗した元カトリックの神父ですが、この「節制と禁欲を突き抜けて幸福と解放に至る」という考え方には通底するものがあるように思います。
かつて、一部の宗教者にのみ見られたような欲望のアップデートが、もしかしたら広い範囲で起きているのかもしれません。