完成してちょうど40年で明け渡し

このときまで、赤穂城は簡略な城だったと考えられている。池田輝興に代わり、5万3500石の領主として赤穂に入封したのは、浅野長矩の祖父で、常陸(南西部を除いた茨城県)から移封になった長直だった。長直は、東は千種川、西と南は播磨灘に面した地に、まったく新たに城を築いた。

築城にあたっては、甲州流の軍学者であった近藤正純が縄張りを担当。このため、寛文元年(1661)に完成した赤穂城は、武田信玄の戦術を理想とする甲州流軍学に裏打ちされ、石垣が複雑に屈曲を重ねる、きわめて実践的かつ個性的な城になった。

浅野氏によってつくられた「旧赤穂城庭園」。趣ある庭園は、哲学者・山鹿素行も制作にかかわった。(写真=663highland/CC BY-SA 3.0 DEED/Wikimedia Commons

浅野家が改易となったのは、それからちょうど40年後のことだった。むろん、赤穂城は明け渡されることになった。浅野長矩が刃傷事件を起こしてから、城が明け渡されるまでを追ってみよう。

元禄14年(1701)3月14日、午後6時に切腹を申し渡された長矩は、すぐに田村邸で自刃。午後10時ごろ、赤穂藩士が遺体を引きとって泉岳寺に葬った。翌15日、龍野(兵庫県竜野市)藩主の脇坂淡路守と足守(岡山県岡山市)藩主の木下肥後守が、「赤穂城受城使」に任じられた。

「受城」とは、改易になった大名の居城を接収することを指す語で、このとき脇坂は赤穂への「在番」も命じられている。

重臣・大石内蔵助の断腸の思い

その後の浅野家中の苦難はいうまでもないが、龍野藩もまた大変だった。3月20日に「受城使」への任命状が届けられ、21日には家老を通じて藩士たちに、「受城」や「在番」の心得が伝えられた。23日には「受城」と「在番」の人員が発表されている。

大石内蔵助〔写真=赤穂大石神社所蔵/PD-Art (PD-old-100)/Wikimedia Commons

3月26日、受城の日程が4月19日と決まると、今度は赤穂城の浅野家中に向けて、4月15日までに退去すべしとの命が下った。刃傷事件からわずか1カ月で、赤穂藩士たちは城と城下を後にしなければならなくなったのである。

だが、龍野藩も振り回される。3月28日、脇坂淡路守は江戸城に登城して、赤穂城の「受城」の御墨印を受けとると、30日には江戸を発った。少し遅れて4月5日、龍野藩士の天野勘介が、赤穂城図などの写しを江戸から持ち帰っている。

4月9日には、龍野藩士が赤穂城下に下見に入ったと聞き知った大石内蔵助が激怒するという「事件」も起きた。幕命で動いているのに、激怒される龍野藩士も気の毒だが、赤穂藩士たちも12日、話し合いの末、赤穂城を明け渡すことを正式に決めている。さぞかし断腸の思いだったことだろう。