兄弟を赦免できる道長の余裕
しかし、まだ騒動は終わらなかった。伊周は太宰府に護送される途中、病気と称して播磨(兵庫県南西部)にとどまっていたが、その後、こっそり都に戻って定子にかくまわれていた。出家もウソだった。こうして定子も巻き込んでさらに評判を下げた挙句、ようやく太宰府に送られ、「長徳の変」は収束した。
もっとも、一条天皇は伊周と隆家を、徹底して断罪したかったわけではないようだ。翌長徳3年(997)3月25日、詮子の病気平癒を期しての大赦が行われ、4月5日、伊周と孝家は公卿会議をへて召喚されることに決まった。
だが、すでに前年7月、正二位左大臣に叙せられていた道長にとって、いまさら伊周と隆家の兄弟が戻ったところで、少しも怖くない。道長自身、彼らを赦免しようという天皇の意向を尊重した。
道長の最大のライバルは伊周と隆家だった。その彼らが自滅してくれたおかげで、自身はなんら手を下さずに政権基盤を固めることができた。長徳の変から1年、そんな兄弟をよろこんで赦免できるほど、道長には余裕ができていたのである。