伊周と隆家の余罪

藤原斉信から連絡がいったのだろうか、道長はその夜のうちに事件を聞き知った。そして、都の警備と治安を担当する検非違使庁の別当(長官)であった、『小右記』の筆者の実資に連絡。20日後には関係者宅への家宅捜索も行われた。

すぐに捜索が行われた背景には、一条天皇の断固たる姿勢もあった。五位以上の貴族の邸宅を捜索するためには、通常は天皇の許可が必要だが、一条天皇は、いちいち自分に告げずにどんどん捜索するように指示したのだ。事件を起こした伊周と隆家は、天皇が寵愛する中宮定子の兄弟だが、天皇の権威を重視する天皇にとって、到底捨て置ける事態ではなかったということだろう。

一条天皇像(部分)
一条天皇像(部分)〔写真=平凡社『天皇一二四代』(1988)より/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons〕

ここまでが「長徳の変」の第1章だとすると、乱闘事件から2カ月余りすぎた3月末、第2章がはじまった。『小右記』(三月二十八日条)によれば、道長の姉で一条天皇の母、東三条院詮子の容体が悪化した際、彼女の在所の床下から呪詛の道具が見つかったのである。

この呪詛も伊周が命じたものだとされた。道隆から関白を受け継いだ道兼が急死した際、政権の中枢は伊周ではなく道長にまかせるべきだと、一条天皇を説得したのは詮子だった。当然、伊周は彼女を恨んでいただろう。だからといって、呪詛の道具をほんとうに伊周が仕掛けたのかどうかはわからないが、伊周の仕業ということになってしまった。

加えて4月1日には、天皇家にしか許されていない「太元帥法」を伊周が僧に行わせ、道長を呪詛していたという話が一条天皇に奏上された(『日本略紀』『覚禅鈔』)。こうして伊周と隆家の罪状は、あっという間に3つになったのである。

髪を下ろして出家した中宮定子

関白道隆の息子であるというだけで、苦労もせずに異例の昇進を遂げた伊周と隆家の兄弟。なんの軋轢も経験せず、世の酸いも甘いも知らぬまま高位に就いたため、世の理不尽に対する耐性がまったくなかったのだろう。雌伏の時間に耐えられれば、ふたたび浮上こともあったかもしれないが、彼らはそれができずに自滅した。

一条天皇は兄弟を赦さず、4月24日に関所を閉じる戒厳令を通達したうえで、内大臣の伊周を太宰権帥、中納言の隆家を出雲権守に降格。即刻配流するようにとの緊急の命を下した。

その後の兄弟の行動は、みずからの自滅にさらに追い打ちをかけるとともに、伊周の妹で隆家の姉である中宮定子の地位まで脅かすことになった。というのも、はじめて懐妊した定子が内裏を出て住まわっていた二条の邸宅に、兄弟は立てこもったのである。

『小右記』によれば、定子は体を張って兄をかばったようだが、一条天皇は許さずに家宅捜索を命じた。その結果、隆家は捕縛され、伊周はいったん逃亡したものの、数日後に出家姿で出頭。懐妊中の定子は責任をとり、髪を下ろして出家せざるをえなくなった。

未熟な若者による、あまりにお粗末な騒動だったというほかない。