嘉子の周囲で最も好人物だった元書生の和田芳夫

「当人も結婚話とは縁遠くなり、周囲をながめて最も好人物であった和田芳夫と結ばれたのは二八歳の時です」

『追想のひと三淵嘉子』のなかで、嘉子の実弟・武藤輝彦が結婚の経緯についてこのように語っている。

和田芳夫は嘉子の父・武藤貞雄が中学校時代から仲良くしていた友人の親戚だった。武藤家では郷里・丸亀から上京してきた若者を住まわせて世話していたのだが、彼もその中のひとり。苦学して明治大学夜間部を卒業し、貞雄が関係する会社に就職した後も武藤家に住みつづけていたという。長く同じ屋根の下で暮らしていただけに、ふたりは昔から気心の知れた仲ではある。

しかし、手近なところで妥協したというわけではない。芳夫は努力家で優しい性格であり、貞雄やノブからは好人物として気に入られていたようだ。以前から花婿候補として目をつけていたフシもある。花婿の最有力候補として温存し、嘉子がその気になるのを待っていたのかもしれない。

同じ屋根の下で暮らした2人、恋愛結婚だった可能性も

恋愛結婚なのか、親や周囲から結婚を勧められた見合い結婚に近いものだったのか。輝彦の証言だけでは、そのあたりははっきりしない。しかし、何事も民主的に本人の意思を尊重するのが武藤家の家風。嘉子が望んだ結婚相手だったことは間違いない。芳夫のほうはどうだったか、彼が嘉子のことを異性としてどう思っていたのか?

それに関する資料は見つからない。寡黙で思慮深く、慎重に判断する性格だったといわれる。「気が弱そう」といった印象を抱く人もいたようだ。嘉子とは真逆のタイプ。欠点を補いあう良い組み合わせには思える。お互い自分にないものをもつ相手に惹かれあう。そういった感じだったろうか?

嘉子は和田姓となり、新婚夫婦は実家を出て池袋にアパートを借りて暮らした。結婚してから約1カ月後には太平洋戦争が始まり、軍ではさらに多くの兵士が必要になっていた。30歳近い予備役も次々に召集されるようになる。が、芳夫は肋膜炎(現在は胸膜炎と呼ばれている)の病歴があることで徴兵を免れていた。

日本軍による真珠湾攻撃 1941年12月7日(写真=Naval History and Heritage Command/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons