太平洋戦争が始まった当初、夫は徴兵を免れていたが…

肋膜炎は肺の外部を覆う胸膜に炎症が起こる病気で、原因のひとつに結核菌感染がある。徴兵検査の合格者は甲種、乙種、丙種に区分され、結核菌感染と関連する病歴のある者は丙種に振り分けられる。平時に徴兵されるのは甲種と乙種だけ。戦時でも丙種の者が徴兵されることはまずありえないというのが、これまでの常識だった。

毎日のように街のどこかで、出征の兵士を見送る万歳三唱の声が響いていた。その声の数だけ、一家の大黒柱を兵隊に取られて寂しさと不安にさいなまれる家族がいる。戦死報告が届く家も増えていた。それを横目に少し後ろめたさを感じながらも、嘉子は夫との幸福な日々を過ごしていた。

それから1年余りが過ぎると、ふたりにはさらにうれしい出来事が起こる。嘉子の体に新しい命が宿ったのである。

昭和18年(1943)1月1日に長男・芳武が生まれた。前日の大晦日には大本営がガダルカナル島からの撤退を決定し、翌1月2日にはニューギニア東部にある戦略拠点ブナに駐留する日本軍が全滅。戦局の不利が明らかになってきた頃である。物資はますます欠乏し、空襲に備えた防火訓練がさかんにおこなわれるようになった。

結婚後1年で長男を出産し、実家に戻って父母と同居する

人々は勇ましく軍歌を唄って「鬼畜米英」を叫ぶが、その多くは周囲の目を気にして同調圧力にあわせているだけ。戦争の勝ち負けよりも、今度の配給はいつになるだろうか? と、米びつの減り具合のほうが気にかかる。

対米開戦当初は大本営発表を鵜吞みにして楽観していた国民も、この頃になると日本の劣勢を悟り始めている。東京が空襲される。それも現実味をおびてきた。公の場でそんな不安を口にすれば「非国民」のレッテルを貼られかねない。

しかし、家族や親しい者たちの間では、安全をどうやって確保するかについてよく話されるようになっていた。生まれたばかりの赤ん坊がいれば、不安はさらに大きい。それについて実家とも相談したのだろう。芳武が生まれるとすぐに、嘉子たち夫婦は実家に戻って父母たちと司居することになった。

貞雄やノブにとっては初孫である。それだけに大甘であれこれと世話を焼く。嘉子にとってふたりは実の親、気を遣うことなく子育てを手伝ってもらうことができる。不安や労力はかなり軽減されて、のびのびと過ごすことができただろう。独身時代の頃から実家では、弟たちが恐れる「ゴッド・シスター」として君臨していた。結婚後も実家に戻ってからはそんな感じだったのだろうか?