言動一致の人

出口さんは腕時計を持たない。手帳も使わない。「時間に拘束されるのがいやだから」だという。時間に拘束されずに生きようと思ったら、腕時計も手帳も捨ててしまう。徹底した言行一致の人だ。本書にしても、記憶だけを頼りに書いたという。

直球勝負の会社
[著]出口治明(ダイヤモンド社)

どんな人でも「そうは言っても実際は……」という部分があるものだが、出口さんにはそれがない。「いかなるメールや電話でも100%返事を出すべき」と決めると、本当にそのとおりにする。谷家さんに「保険会社をやりませんか」と言われたとき、「いいですよ」と答えた直後にはもう「谷家さんが自分の新しい運命だ。これまでに自分をすべて捨ててしまって、谷家さんと一緒にゼロから再出発してみよう」と決意する。「ゼロから」の言葉通り、昔の人脈はいっさい使わず、免許がおりるまでは金融庁の担当窓口以外の人間を決して訪ねない。日生ではMOF担を経験していたので、知り合いは何人もいたはずだが、挨拶にも行っていない。思想と言葉と行動の間にズレがまったくない。

出口さんと対談したときに、話題が政治の問題になった。出口さんは「誰もが政治が悪いと言う。だけど考えてみてほしい。歴史上、古今東西、いい人ばかりが政治家だった時代なんてありますか? 政治なんてそんなものです。理想を求める方が間違っている」と言い切った。それだけ聞けば、シニカルな教養人的発言だ。

僕は続けて質問した。「出口さんがこれだけの大義をもって創業して、世の中のため人のためと毎日へとへとになるまで働いている一方で、世の中には我欲剥き出しのわりと邪(よこしま)なベンチャー経営者もいますよね。そういう人を見ていてイヤになりませんか」すると出口さんは、「いや、まったく気にならない。そういう邪な会社は株式市場で淘汰されるものですよ」とおっしゃった。
これは僕にとって少し意外だった。株式市場は人間の我欲が渦巻く世界。特にベンチャー企業の株価は、経営の実態とかけ離れたところで乱高下しがちだ。リーマンショックのドタバタ騒ぎを引き合いに出すまでもなく、人間の理性や知性と重んじる出口さんは株式市場についてもわりと距離を置いてみていると思っていたからだ。

そこで僕は「世の中というのはそんなものだと言いながら、出口さんはわりと人間社会を信じていらっしゃいますね」と言った。これに対する出口さんの言葉が素晴らしかった。「株式市場に限らず、人間の世の中というのはずいぶんいい加減で愚かなものですよ。でも、歴史をみてください。これだけ人間が愚かで、これだけの愚行を人の世が繰り返してきたにもかかわらず、いまここでこうやってわれわれは世の中で生きているんですよ。面白いと思いませんか。この絶対的な事実からして、人間社会は信頼に足ると思わざるを得ない。私はそう思います」。まことにシビれる考え方だ。知性とはこういうものか!僕は人間の知性の深淵を覗き込むような畏敬の念をもった。僕よりも小さな体の出口さんが何倍も大きく見えた。

対談を終わって、ライフネットのオフィスを出て街を歩きながら、僕はこういうことを考えた。もし出口さんがあのときに谷家さんと出会わなければ、ライフネット生命はこの世になかった可能性が高い。出口さんという還暦企業家も登場せず、本書も書かれず、僕は出口さんという偉大な人の存在を知らずに終わってしまったに違いない。ご本人は、威圧感やカリスマ性などみじんも感じさせない、率直に言ってごく普通のたたずまいの方である。

ということは、僕が知らないだけで、川の流れに身を任せて淡々と生きているように見えて(実際そうして生きているのだけれど)、出口さんのように素晴らしい見識と人格を持った人がこの世の中にはまだまだたくさんいるのではないか。出口さんにしても、ご本人の言葉を借りれば、たまたま「僥倖」で会社を創るという大きな仕事をするに至ったわけで、きっと世の中にはこうした上等で上質な人がたくさんいるはずなのだ。そう考えると、なんだか非常にイイ気分になった。世の中は捨てたものではない。

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