「バカでもとれる免許」をつくっても無駄
では、免許制にしたとする。
試験はどうしよう。実技は? 筆記は? 参考にすべきはもちろん原動機が付いているほうの自転車だ。
50cc以下のオートバイ、いわゆる原付バイクについては、免許がある。基本的な交通法規のみ、ペーパーテストオンリー。実技なし。誰から見たって「日本一簡単な免許」である。だから何も勉強しないで受ける人が多いのだが、それでも合格率は約6割になる。
もしも自転車免許というものを作ったとするなら、その免許はどう考えても、このククリより簡単なものではなくてはならない。
なぜなら、自転車によって惹起されるであろう事故は、原付よりも軽いからだ。
事故時の衝突エネルギーは「質量×スピードの二乗」で計算される。自転車は原付の数分の一の車重しかなく、原付よりもはるかにスピードが出ないのはご存じの通りだ。
となると、自転車通行を「免じて」「許す」ハードルは原付よりも低いものでなくてはならない。大型トラックと一般乗用車の免許が違うのと同じだ。
ということは、どうなる。日本一簡単な、いわばバカでも通る試験よりも、さらに簡単な試験を課さねばならないだろう。そんな免許はないのと同じだ。ないのと同じ試験を課すのは、ただの無駄だろう。
ところが、そうした“無駄な”免許であっても、制度を作り、試験を課し、それを国家のシステムとするには、そこにもまた役所(ナントカ法人)が必要になり、役人が必要になり、つまりはそこに税金が投じられるわけだ。
この余裕のない現代ニッポンで、そんな無駄をやってどうする。
免許ではない「いまやるべきこと」
「免許」というより前に、やるべきことの一番手は、何といっても「教育」だろう。
そもそもこの国では、自転車に関する教育がなさすぎる。教育が「なってない」のではなく、教育が「存在しない」のだ。
左側通行の原則も守らず、車道か歩道かもなく、どうしたときに事故が起きるかも知らず、その結果の悲惨さも知らない。
そこに電ジャラス自転車ブームなどが起きれば、車道の自転車がデタラメになるのは当たり前の話なのだ。