おかしくなった母親

火事で火傷を負い、入院した母親は退院後、一人で実家に戻ってきた。母親の育児能力が問題視されたのか、継父と生き残った上の弟は、継父の実家へ移り住み、別居することになったようだ。

当時60代の祖母の家には小2の蓼科さん、母方の叔父の3人暮らしだったが、ここに母親(30歳)が加わると、蓼科さんにとっての地獄が始まった。

母親は、家の一番奥の部屋に引きこもり、仕事もせず昼夜逆転生活を始めた。真夜中に独り言をぶつぶつ言い、壊れた人形のように突然ケタケタ笑う。

ある晩、母親がケタケタ笑っているため、蓼科さんが、「何で笑っているの?」とたずねると、「私、泣いてるのよ」と焦点が合わないうつろな目をして言った。

「母が来てからというもの、家の中は地獄のようでした。母は夜中に異常に興奮して急に走り出したり、突然近所に『うるさい!』と言って怒鳴り込んだり、自転車を盗まれたとかスリに遭ったとか、ありもしない盲言や虚言を吐き散らかしたり、お客さんが来ていても平気で家の中を裸でうろついたり……」

この頃から蓼科さんは学校へも行き渋るようになっていく。原因は男子からのいじめと担任教師への不信感、家庭でのストレスだった。しかし祖母に「学校に行きたくない」と訴えても聞き入れられず、引きずるようにして登校させられる。

それでも学校に行きたがらない蓼科さんに、祖母はだんだん登校を強要しなくなり、小3、4の2年間はほとんど学校に行かなかった。

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子どものような母親

母親と祖母の喧嘩は日に日にエスカレートしていった。同居している叔父は口ではいさめようとするが、喧嘩真っ只中の2人の耳には届かない。まだ幼い蓼科さんは耳をふさいで嵐が過ぎ去るのを待つだけだった。

ある晩、祖母に生活態度を注意されたことで母親が激昂。母親は祖母に炊飯器を投げつけ、もみ合い状態になり、祖母の首を締め、ネックレスを引きちぎった。

翌朝、祖母は家の中から消えていた。

「お祖母ちゃんがいない」と奥の部屋に蓼科さんが言いに行くと、母親はわれ関せずな様子で空返事をした。

このとき蓼科さんは10歳。まだ家事を教えてもらっておらず、おこづかいももらっていなかった。家庭科の授業は小5からだ。蓼科さんは、水と残されていたお菓子などで空腹に耐えるしかなかった。

母親との喧嘩から4日目に帰ってきた祖母は、痩せ細った蓼科さんを見てこう言った。

「こんな難民の子どもみたいなお腹になって……! お母さんは何もしなかったのか……?」

母親も叔父も自分たちだけ食べて、蓼科さんに食べ物を与えなかったのだ。

蓼科さんが小5になると、担任の教師が変わったため、再び学校に行けるようになった。

一方で母親は相変わらず引きこもり、たまに蓼科さんに「返事の仕方が悪い」などと難癖をつけては頭を叩いてくるなどの暴力をふるうようになった。それに対して蓼科さんは、容赦なく対抗した。

「私はとっくの昔に母と決別していましたから、一日中寝ているか遊んでいる母親には躊躇ためらわずに反撃できました。祖母が安全地帯になってくれたから、母に抵抗できたのだと後から自覚しました」

蓼科さんの態度が気に入らない母親がちゃぶ台をひっくり返すなどして暴れ出すと、蓼科さんはお菓子の鉢をひっくり返し、母親の頭から菓子鉢に溜まったクズを浴びせかけて反撃した。

「母はたぶん養育者としての責任が理解できないまま子どもを産んでしまったのでしょう。小5の私から見てもまるで子どものようでした。おそらくそのせいで、祖父母やきょうだいたちからもまともに扱われてこなかったのでしょう。それでも私は母が羨ましかった。大人なのに子どものようなふるまいが許されていたから。私は祖母や叔父に気を使い、面白いことを言って場を和ませ、本当の自分を出せず、ひたすら祖母の愚痴を聞くまるで小さな無料カウンセラーでした。3〜4日食事を与えられなくても文句ひとつも言わない透明な存在でした……」