「理屈の正しさ」で勝負しても溝は埋まらない

反対意見の人を説得し、多数決による合意形成に至りたいときも、価値観こそが拠り所となります。

自分には理屈がある。相手にも理屈がある。

「理屈の正しさ」で勝負しようとしても溝は永遠に埋まりません。合意形成の大半は理屈の正しさではなく、価値観を説明することによってなされるものといってよいでしょう。

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価値観による「評価」だけでは「好き嫌い」を言うばかりになり、「意見」のレベルに達しません。これでは議論にならないので、理屈を立てることは重要です。しかし、「理屈至上主義」になってはいけません。

理屈至上主義では、「筋が通っていれば正しい」→「しかし、どの理屈も筋は通っている」→「いったい何が正しいのか?」というジレンマに陥るのが関の山です。

意見を意見たらしめるのは、「理屈の大前提に横たわっている自分の価値観」です。議論においては、「自分は、いかなる価値観にしたがって理屈を立てようとしているのか?」「いかなる価値観に支えられた理屈を支持したいのか?」をつねに意識することが大切です。

まとめ
・価値観こそが意見の拠り所であり、結論を分ける分岐点になる。
・価値観を説明することで合意が形成される。
・議論では、「どんな価値観で理屈を立てるか」をつねに意識することが大切。

価値観を伴わない理屈は「屁理屈」である

理屈で相手を論破する人がもてはやされがちな昨今、理屈至上主義に陥る人が意外に多いのかもしれません。議論において主観を交えるのは、「単なる感想」を言っているだけであり、タブーと思われている節もあります。

こうした風潮は、そもそも議論というものの性質を大きく見誤っています。

「議論」とは互いの意見を投げかけ合うことであり、投げかけ合う「意見」は、価値観と理屈の両輪でつくられるもの――ここまで読んできた方なら、理屈至上主義の何が誤りなのか、もうおわかりでしょう。

価値観とはもともと主観的なものです。その価値観に支えられた意見をぶつけ合うのが議論なのですから、「主観を交えるな」と言うのは道理が通りません。

「理屈」を伴わない価値観は単なる「評価」です。先ほどの「好き嫌い」「けしからん」と同じです。ならば「価値観」を伴わない理屈は何かというと、単なる「屁理屈」です。いずれも議論を成立させうる「意見」とは呼べず、より悪質なのは屁理屈です。

世の中にはじつにさまざまな議題があります。その議題ごとにとる立場に一貫性をもたらす背骨のようなものが「価値観」です。