選手にない発想をどう提示できるかが指導者の腕の見せどころ

私に言わせれば、パフォーマンスを高めるには苦痛や理不尽などの厳しさを単に乗り越えればよいという信憑は、短絡でしかない。その壁をどのように乗り越えればよいかという視点が欠落しているからである。指導者や年長者は、とにもかくにも厳しさを与えればよいわけではなく、楽しく、愉快に取り組めるように選手や後進に促せるかどうかが腕の見せどころとなる。

語気を強めた命令口調での言葉がけもあれば、語調はソフトながら、その内容はとてつもなく厳しいという言葉がけだってある。

一言で厳しさといっても、それを表現する方法は工夫次第でどうにでもなるし、先のイチロー氏も「本人の発想にはない高いレベルを提示してあげるなどして導くコミュニケーションは、若い人の成長を大きく促すと思います」と、厳しさの押しつけではないコミュニケーションの重要性を語っている。

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理不尽な指導はいつか成長を頭打ちさせる

もっとも、ただただ厳しさを押しつけ、それを乗り越えるように急かしてもそれなりには成長する。生ぬるい環境よりも教育的効果が高いのは確かだ。

だが、この指導方法ではいつか頭打ちとなる。理不尽に耐え忍ぶことで身につくのは、従順さでしかないからである。創造性は、主体的に取り組む姿勢からしか生まれない。誰かの指示を待ってしか動けなくなれば、伸び悩むのは必然だ。小成は大成を妨げるのである。

また、単に厳しさを押しつける指導は脱落者を量産する。首尾よくそれを乗り越えた一部のサバイバーはいいが、人知れずその道から外れゆく者たちを構造的に生み出す。耐え忍ぶか諦めるかという選択を強いるのは、もはや教育や指導ではなく、選別でしかない。

一部のサバイバーと、大量の脱落者を生み出すこの選別的指導法は、少子化や人口減少のフェーズにあるいまの社会にそぐわない。なにも全員をプロに育てよというのではない。プロになれずとも、せめて当人がそのプロセスや営みを肯定的に捉え、好きでい続けられるような指導をこそ目指さなければならない。つまりは誰一人取り残さないような心がけが求められる。