2023年は「ハラスメント」の年だった
私にとって2023年は、この先も記憶に残り続けるに違いない。なぜなら、権力勾配に無自覚な「ハラスメント」がここまで社会に広がっていた現実を、まざまざと見せつけられたからである。
なかでもエンターテインメント界に君臨してきたジャニーズの消滅と、上級生からのいじめによる劇団員の急死が発覚した宝塚歌劇団の件には衝撃を受けた。華やかで、きらびやかに映る世界の裏側では目も当てられない人権侵害が渦巻いていたことに、いまもまだ驚きを禁じ得ない。
あわてて言葉を継げば、「驚く」というのはいささかナイーブすぎる。よくよく思い起こせば、これら一連の事態が私には「青天の霹靂」ではないからである。
「人権軽視」の姿勢をずっと黙認してきた
ジャニー喜多川氏の性加害問題は、1965年に『週刊サンケイ』が報じてから、さまざまなメディアが報じてきた。宝塚歌劇団についても、劇団員に厳格なまでの上下関係が強いられる事実はさまざまな媒体が報じている。
阪神間に住む私は、駅のホームで走り去る阪急電車に頭を下げ続ける劇団員を実際に目にしたことがある。いじめによる自死が発覚したいまから思えば過剰だと感じられるも、当時は厳しい環境に自ら進んで身をおき、夢に向かって懸命に努力を続ける若者の姿として、むしろほほ笑ましく眺めていた。
つまり私は、襖一枚隔てるほどの距離感で人権軽視の気配を感じ取ってはいた。にもかかわらず、それをゆるがせにし、異議申し立てもしなかった。ゆえに問題が明るみになったいまになって、これ見よがしに驚いてみせるのは欺瞞以外のなにものでもない。「やっぱりそうだったのか」というのが正直な心境で、驚いてみせるという態度はうしろめたさから逃れる言い訳にすぎない。
もしあのとき異議申し立てをしていたとしても、これらの事態を防げたかどうかはわからない。おそらくなにも変わらなかっただろう。そうであったとしても、この自責の念を手放すことはできないし、してはならないだろう。同じ社会を生きるひとりの人間として、すべきことを放念してきた過去を反省したうえで今回は書きたい。