「結果さえ出せば手段は問わない」という共通感覚

華やかできらびやかに映る世界の裏側には人権侵害がはびこっている。この構図はそのままスポーツ界にも当てはまる。

指導者や年長者からの暴力や暴言は、部活動からプロスポーツに至るまで枚挙にいとまがない。大阪市立桜宮高等学校(当時)のバスケットボール部員が顧問の暴力を苦に自殺した2012年以降、暴力根絶が目指されながらもいまだにこのテの事件は頻発している。指導者と選手、先輩と後輩のあいだでのハラスメント事例は後を絶たない。

エンターテインメント界およびスポーツ界でハラスメントが横行している背景には、「結果さえ出せば、その手段は問わない」という考えが通底していると思われる。

華やかな歌と踊りや卓越したプレーと勝利。それさえあればいい。観る者をエンパワーメントできているのだから、そこに至るプロセスにはとやかく言わない。少しくらい常識を逸脱する言動が見受けられても、相応の結果を出しているのだから仕方がないと、積極的に見過ごされてきた。

私たちが抱く「結果さえ出せば、手段は問わない」という共通感覚が、エンタメ界およびスポーツ界でのハラスメントを見て見ぬふりさせてきた。

「理不尽を乗り越えなければ良い結果は出ない」という思い込み

いや、エンタメ界やスポーツ界だけではない。平成元年の新語・流行語大賞に「セクシャル・ハラスメント」が選ばれてからずっと、社会のあちこちでハラスメント事例が炙り出されている。人権を軽視した各種ハラスメントの横行は、いまに始まったわけではないのだ。

社会がまるで悲鳴を上げるように警鐘を鳴らしていたにもかかわらず、目を見張る結果が出ているのだからと、それに至る手段には目を向けずに私たちは放置してきたのである。

抜本的にハラスメントをなくすには、まず「結果さえ出せば、その手段は問わない」というこのまなざしを、問い直さなければならないだろう。

この共通感覚の前提には、「苦痛や理不尽を乗り越えなければハイパフォーマンスは叶わない」という、別の信憑しんぴょうがある。苦痛や理不尽に耐え、歯を食いしばって乗り越えなければハイパフォーマンスは発揮できないと、多くの人が思い込んでいる。ハイパフォーマンスには苦痛や理不尽がつきものだと考えているからこそ、少々の厳しさならば仕方がないと結論づけるわけだ。

「ハラスメントはいけない」→「だが多少の苦痛や理不尽は必要」→「結果が出ているのだからよし」というように。