痛みを与えてはならないが、命を奪うのは認められる?

生存権の議論の特徴を、第二の次元でテーマとなっていた痛みの議論と比較してみよう。

まず、どちらも能力に基づいて正当化される。痛みが問題になるのは、痛みを感じる能力をもつ生物に対してであった。同様に、生存権は、自らの生存を欲する能力をもっている生物に発生する。したがって、生存権をもたない動物の殺生は許されるが、その同じ動物が痛みを感じるならば、痛みを与えてはならない。

痛みを与えてはならないが、命を奪うのは認められると聞くと、奇異に響くかもしれない。だが、思った以上に現実に呼応し、私たちの感性に対応している。人間がウシやブタをどう取り扱っているか、振り返っていただきたい。

私たちはウシやブタを食用に殺す。とは言え、どうせ殺されるのだからとウシやブタに痛みを与えたり、なぶったりしてよいと考えているわけではない。時として、命の奪取より苦痛を与える行いを、私たちはより悪いと感じている。

命を奪ってもいい動物、許されない動物は線引きできるか

しかし、痛みと殺生の重さについてこうして認めるとしても、自己意識に基づく生存権の議論には大きな疑問を読者は抱くにちがいない。大型類人猿に限らず、動物は生存を欲していないだろうか。

自己を意識はせずとも、ニワトリ、ウシ、ブタなどにも食べる、飲むなど、生存に必要な欲求はあるし、生存が危険にさらされれば逃げる。動物は未来の利益と不利益を勘案して――知覚してと言うべきかもしれない――危険を避けるし、獲物をまつ。生き続けたいと選好しない生物を指摘するのはむしろ困難だろう。

この疑問をもって、シンガーの2つの基準を振り返ると、シンガーが明示していないが、区別するべき異なる結論が生命の扱いに生じてくる。

まず選好功利主義の基準では、生命の重要性は程度問題になる。選好功利主義は、自己意識をもつ人間の生命を奪うことを人間以外の生命の奪取より悪いと判断する。なぜなら、人間は将来何を行いたいか、どのような人生を送りたいか、将来設計、未来への志向が選好において強い比重を占めるが、殺害はその選好全てを断ち切るからである。

シンガーは、選好内容の大きさ、重さ、比重によって、未来への選好の集合を切断する殺生を判断している。

つまり、生命を奪う不正の度合いは、選好の度合いによって変化する。