妊娠中絶の対象となる胎児はいつからヒトになるのか

選好(preference)の総和として、最大多数の最大幸福を考慮する功利主義の現代的ヴァージョンを、選好功利主義と呼ぶ。選好は、当の本人が自らの利益と不利益を勘案して好み選ぶことを指す。当然、生き続けたいと選好する者の命を奪うならば不正となる。

もう一つの議論は、アメリカの哲学者、トゥーリーによってもたらされた生存権の議論であり、シンガーにとって、動物の殺生を批判する決定的なり所になっている。

トゥーリーは、生存権の議論を、多くの反響を呼んだ論文「妊娠中絶と新生児殺し」で発表した。タイトルからわかるように、もともと動物ではなく、人工妊娠中絶を行う際の胎児の扱いがテーマだった。

胎児の生存権の議論の背景について、若干説明しておきたい。

1960年代まで、妊娠中絶の対象となる胎児はヒトであるか、それともまだヒトではないかを巡って、議論が行われていた。ところが、1970年代になると胎児は発達のかなり早い時点で、ヒトとしての器官を備えている事実がわかってくる。同時にこれはアメリカで厄介な法律問題をもたらした。

合衆国憲法修正第14条で、いかなる人間(person)からも、生命、自由、財産を正当な法的手続きなくして奪ってはならないと書かれているため、胎児が人間であるなら、妊娠中絶は憲法違反になってしまうからである。

宇宙に浮かぶ胎児
写真=iStock.com/Lidiia Moor
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幼児に認める生存権を類人猿に認めないことの「矛盾」

こうした事情を背景に、トゥーリーは、胎児はおろか新生児でさえ生物学的にヒトであっても、まだ生存権をもつ人間ではない、と主張したのである。トゥーリーの生存権の議論は、生命倫理においてパーソン論を巡る一連の議論をその後引き起こすようになる。

シンガーは、そのトゥーリーの議論を活用した。

生存権は自己意識と密接に関連しているとトゥーリーやシンガーは考える。もし、大型類人猿に自己意識があるならば、彼らは生存する権利をもつ。これが動物の権利論の中心的議論である。議論の組み立ては次のようなものだ。

生存権は、生きていたいと欲する生物にある。生きていたい欲求は、自らの将来に亘る生存を欲することと同値である。自らの将来に亘る生存の欲求は、自己を意識することによって生じる。したがって、自己理解・自己意識をもつものに生存権がある。これが自己意識要件と呼ばれる論点である。

大型類人猿に自己意識があるならば、彼らに生存権が発生する。自己意識をもつとみなせない新生児から2歳程度の幼児にも生存権を認めているのだから、それ以上に自己意識の可能性がある大型類人猿に生存権を認めなければならない。新生児に生存権を認め、大型類人猿に生存権を認めないのは、ヒトであるかないか、生物種の区別によってふるい分けている。

これは種差別以外の何ものでもない。これが動物の権利論の生存権を巡る議論であり、シンガーの有名な種差別批判である。