つまり、法的に貴族というのは従五位下以上を言うのだ。五位と六位の間が管理職とヒラの境目のようなもので、当時の律令官僚もサラリーマン生活で、支給される俸給が通貴(貴に準じる)と非貴族の間では倍ほどの差がある。
当時は米・絹・鍬など現物支給で、それらを合算して『延喜式』の禄物価法で米量に直し、現代の米価で換算すると、概算正六位で年収六百八十万円、従五位では千四百万円、正五位では二千六百万円にはねあがる。正四位の大中臣能宣などは四千万円になる(拙著『日本人の給与明細』角川ソフィア文庫、二〇一五年)。ちなみに、最高クラスの道長や道隆などの俸給は年収三億円から四億円に上る。
「緋色の袍を着たい」と嘆く六位の人たち
俸給が幾らなのかは、上着の袍の色で分かる。みじめなのは緑の袍を着なければならない六位の非貴族だ。もう一階級上がって緋色の袍を着たい。切ない願望である。大中臣能宣が六位であった時に、子日に野原で小松を引く行事に掛けて嘆いた歌がある。
(緑の小松ならば引き抜く人が今日はいるように、誰か緑の衣を着る俺を引き抜いてくれないかなあ。緑の袖の六位では、かいがないよ)
大中臣能宣(『能宣集』)
誰が引き上げてくれたのか、その後、緋の衣の五位、深緋の四位に達している。大中臣氏は政府の執行する祭典を司る神祇官の家であり、代々五位相当の神祇大副を務めているので、彼が緑の袖を脱ぐのは時間の問題であった。
しかし父頼基も達しなかった正四位下に至ったのは、歌人として抜群の才能を有し、天皇や政権実力者と密接であり、数多の引く人があったからだろう。
琵琶湖の底に沈んだ老松が自分に見える…
緑の衣を嘆く人は他にもいた。藤原兼家の弟大納言藤原為光の供をして石山寺を参詣した内記源為憲は、琵琶湖の老松を見て、
(渚の老松の深緑の影が琵琶湖の底に沈んで見えるが、それをよそ事として見ていられようか。老いた自分もまた深緑の位に沈んだままだ)
源為憲(『源順集』)
と嘆いた。
為憲は緑の袖すなわち正六位上の大内記だったのだろう。その後、沈んでいた老松の為憲も従五位下になり、従五位上に叙せられている。漢詩人、文人として優れていたことが、沈める影を浮かび上がらせてくれたのだろうか。
為憲の嘆きの歌に応じ、既に五位で浅緋の衣の友人源順は、
(私は貴方のような深緑の松ではないのですが、深朱の色を待っても、どうして明け方の色のような浅い緋色に染まったままなのでしょうか)
源順(『源順集』)
と返した。