東京は「創造的復興」によって近代都市に

それに対して、「不謹慎だ」とか「被害が広がっている最中に発言するのはやめて、一段落してからにしたらどうか」と言う人もいた。

しかし、歴史家として言わせてもらえば、一刻も早く“戦後”を構想し、嬉々として青写真を描いた者だけが真の勝者となれるのは自明の理である。

あらゆる災難や不幸は、打撃であると同時に「禍を転じて福と為す」チャンスでもある。関東大震災の時に復興の先頭に立った後藤新平は、これを「千載一遇のチャンスだ」といって復興に臨み、明治維新で無血開城したがゆえに近代都市になっていなかった東京を、帝都としてふさわしい近代都市に改造した。

昭和通り・靖国通り・明治通りといった幅の広い街路とか、隅田川の岸辺の公園、鉄筋コンクリート造りの同潤会アパートなどはその典型的な遺産である。

「理想的帝都建設の為の絶好の機会なり」

そもそも、大改革は敗戦や大災害の災禍の焦土の中からしかできないのである。1923年9月1日に関東大震災が発生し、その翌日に成立した第2次山本権兵衛内閣で内務大臣に就任した後藤新平は、同月6日の閣議に「帝都復興の議」を提出した。

関東大震災、東京の帝都復興計画の立案・推進に従事した後藤新平(写真=『近世名士写真 其1』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「今次の震災は帝都を化して焦土となし、その惨害言うに忍びざるものありといえども、理想的帝都建設の為の絶好の機会なり。この機に際し、よろしく一大英断をもって帝都建設の大策を確立し、これが実現を期せざるべからず。躊躇逡巡、この好機を逸せんか国家永遠の悔いを遺すに至るべし」と、災害が続き亡くなる市民も増える中で勇気ある指針を示し、伊東巳代治によって起草され、同月12日に発布された「帝都復興に関する詔書」に反映された。

ただ、土地の強制買い上げなど抜本的な対策は、東京の地主の既得権益を重視した伊東巳代治らの反対で実現しなかった。また、後藤は政府が直接責任を持つかたちで進めたがったが、復興院を置くという間接的な形になった。

第2次世界大戦の戦禍を被った東京は、後藤の復興計画のおかげで壊滅から救われた。それでも、昭和天皇は、「後藤新平が非常に膨大な復興計画をたてたが、いろいろの事情でそれが実行されなかったことは非常に残念に思っています。もし、それが実行されていたらば、おそらくこの戦災がもう少し軽く、東京あたりは戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、今さら後藤新平のあの時の計画が実行されないことを非常に残念に思っています」[1983年(昭和58年)記者会見]と述懐されている。そうした悔いを将来の世代に持たせてはならないのである。