「アンタなんか簡単に死ねんの」

昼食後の時間にデイケアルームに行くと、利用者さんがお茶を飲みながら、よくこんな雑談をしています。

「うまいことポックリ逝く方法はないもんかいな」
「朝、目が覚めんとそのまま逝けたら、こんなええことはないな」
「こけて頭打って、そのままあの世に行けたらええのに」
「道でトラックでも突っ込んできて、バーンとはねてくれへんやろか」

デイケアに参加する高齢者にとって、死はある種の憧れ、救いのような側面があるようでした。

高齢者が死を肯定的に捉えていることを、私はあるゲームのプログラムで痛感しました。

利用者さんが二チームに分かれて、風船をとなりの人に順繰りに渡すゲームです。前から受け取った人は、次に背中側に手渡し、背中側で受け取った人はお腹側に渡します。

ついつい焦って風船を受け損ねたり、交互に渡すのを忘れたりして、それが笑いを誘うこともありますが、競争ですから、ときに白熱して利用者さん同士が興奮することもありました。

見ていると、同じ女性が何度か風船を落とし、その度に彼女のチームが負けました。すると、ふだんから意地悪な女性が、風船を落とした女性に、「アンタのせいでまた負けた」ときつい言葉をかけました。

すると言われた女性は取り乱して、「ああ、わたしが悪い。わたしのせいで負けた。もう死んでしまう」と叫んだのです。これに対し、先の女性はさらにきつい口調でこう言いました。

「そんなこと、言うたらいかんの。アンタなんか簡単に死ねんの」

写真=iStock.com/kazuma seki
※写真はイメージです

「すぐ死ねない」ということが悪口になる

ふつう、腹が立ったら「アンタなんか死ね」というのが罵声となるでしょう。ところが、その場では「死ねない」というのが意地悪になっていたのです。私はそのことに妙に感心しました。それだけ死が望ましいものとして捉えられているわけですから。

まだ長生きをしておらず、命が惜しいと思っている人には、理解しがたいかもしれませんが、いつまでも死なないというのは、実際、つらくて苦しいものです。高齢者医療やがんの終末期医療の現場で、過酷で悲惨な延命治療を目の当たりにすると、そのことを実感します。

だったら、適当なところで上手に死ぬことが望ましいはずですが、いつまでも生きていたいと思っている人は、なかなかそちらに気持ちが向かないようです。

死ぬことの準備は不愉快かもしれませんが、それをせずに安穏と暮らし、いざ死が目の前に迫ってから下手な選択をして、悔いの残る死に方をした人を多く目にした私としては、もったいないとしか思えません。