「いいことなんか、ありません」
Eさん(89歳・女性)は、送迎バスが到着した直後に胸が苦しいと言って倒れたので、診察室に運んで心電図をとりました。心室性の不整脈発作で、急いで抗不整脈剤を注射すると、なんとか整脈にもどって、意識も回復しました。
「もう大丈夫ですよ。よかったですね」と声をかけると、Eさんはぼんやりと天井を見たまま、「そうですか。死ねませんでしたか」と、心底、落胆したようにもらしたのです。
「そんなことを言わないで。生きていれば、またいいこともあるでしょう」
そう励ますと、Eさんはカッと目を見開き、私をにらみつけて、「いいことなんか、ありません」と、しゃがれた声で断言しました。私は自分の迂闊さ、無責任さを指弾されたようで、言葉を失いました。Eさんは息子さん一家と同居していましたが、嫁と折り合いが悪く、家庭内で苦しい状況にあったのです。
「あんな家に帰るくらいなら、死んだほうがよっぽどましです」
返す言葉がありませんでしたが、だからと言ってもちろんみすみす死なせることはできません。しかし、それは私の保身だったのかもしれません。ほんとうにEさんのことを考えるのなら、発作のまま逝かせてあげるのがよかったのではないかと、一抹の迷いがあったのも事実です。
「死んでもいい」という患者に検査を勧めるが…
この二人ほど深刻でなくても、死にたい願望を持つ利用者さんは、珍しくありません。
Kさん(78歳・女性)は、杖はついていますが、背中も腰も曲がっていませんでした。パーキンソン病なのでポーカーフェイスで(パーキンソン病には“仮面様顔貌”という症状があります)、声も低く、滅多に感情を表に出しません。そのKさんに胸のX線撮影をすると、妙な影が写っていたので、私は肺がんかもしれないと思い、精密検査を勧めました。
不安を取り除くため、「それほど心配ないですから」と言い添えると、「心配はしません。いつ死んでもいいですから」と、Kさんは眉一つ動かさずに応えました。
いつ死んでもいいと言う人に、さらなる検査を勧めることが正しいのかどうか、私は迷い、「精密検査はどうしますか」と聞くと、「先生が受けろとおっしゃるのなら受けます」という答え。まるで検査は私への気遣いのようでした。
結局、しばらくようすを見ることにして、何度かX線撮影を繰り返しましたが、影の増大は見られず、症状も悪化しませんでした。