「頼ってくれているんだ」と思えて嬉しかった

私がジャニーズ担当として関わったのは、『ヤンヤン歌うスタジオ』をはじめとして光GENJIからSMAPにバトンタッチされたドラマ『あぶない少年』、デビュー前のSMAPをレギュラーに抜擢して毎週違う会場から生中継をするといった無謀の歌番組『歌え!アイドルどーむ』ほか、SMAPが司会の『ポップシティX』『朝シャン!音楽壱番館』『ヤンヤンもぎたて族』などかずかずの番組だった。

当時はスマホどころか携帯電話もなかった。収録や編集が終わってヘトヘトに疲れ果てて家に帰ると、家電が鳴る。出ると光GENJIのメンバーが「焼肉を食べに行きたい」とねだるので、またタクシーを拾って夜中に出かけてゆく。そんな生活だった。

そんなわがまま放題の彼らのおこないも、私には「頼ってくれているんだ」と思えて嬉しくもあった。

母の葬儀に大きな花を出したジャニー氏

こんなふうに私は完全に少年たちの「おもり役」のような感じだった。彼らはおりにつけ、「ジャニーさんがこう言った」とか「ジャニーさんはこうしてくれた」と目を輝かせて私にしゃべってくれた。

いつも彼らが強調して言うのは、「ジャニーさんはよく人の話を聞いてくれる」「こちらに意見を求めてくれる」ということだった。それを聞くたびに、私は後楽園スケートリンクでの出来事を昨日のことのように思い出していた。

ジャニー氏は、人の心をつかむのがうまい人だった。

私がジャニーズ担当のADだった1988年の年末、母がガンで亡くなった。するとジャニー氏は、葬式に「ジャニーズ事務所」と「光GENJI」という花だけでなく「喜多川ひろむ」という本名で大きな花を出してくれた。

写真=iStock.com/Yuuji
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いまのように情報があまりない時代だったので、私はそれを見て「ジャニーさんって擴っていう名前なんだ」と思ったのを記憶している。

前年の1987年に「STAR LIGHT」で華々しくデビューをした光GENJIの人気は絶大なものがあった。

光GENJIの人気ぶりを象徴するエピソードがある。

バレンタインデーのことだ。テレビ東京の神谷町社屋の前に、続々と工事現場用の大型ダンプトラックがやって来た。積んでいるのは砂利ではない。山のようなチョコだった。そして、それを道路にガーッと落としてゆく。すべて光GENJIへの贈り物だ。

少年たちの苦しみに気づけなかった

テレビ東京では光GENJI主演の『あぶない少年』が放送されていたので、ファンはテレビ東京あてにチョコを送ってきたのだった。

もちろん、私の田舎の兵庫でもその人気に変わりはない。しかも、亡くなった母は小学校の教師をしていた。葬儀に訪れた教え子たちが「光GENJI」からの花を見てざわつく声は、いまでも忘れられない。「えー、なんでこんなところに光GENJIの花があるの? 田淵先生とどんな関係?」という感じだ。私は誇らしく感じていた。