本は芋づる式に出会える
このように、心の鍵が開いた瞬間にあなたを待ち受けている本に出会うことができれば、そこからは芋づる式にさまざまな本との出会いが待っています。
『幾山河』の次に、私はヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』(みすず書房)を読みましたが、これもまた別の意味で頭を殴られるような衝撃を受けました。
フランクルはユダヤ人の精神科医で、ナチスドイツ時代のユダヤ人強制収容所での過酷な生活を生き抜き、解放直後に著した同書は、世界の人々に衝撃を与えると同時に、世界的なベストセラーになりました。
人間はつねに「 生きる」という問いの前に立たされている
その中に、私が衝撃を受けた、以下のような文章があります。
人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない(後略)。
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。
つまり、私たち人間は、つねに「生きる」という問いの前に立たされている。そして、それに対して実際にどう答えるかが、私たちに課された責務だというのです。
それまでの私は、自分の身に降りかかる不幸を嘆いてばかりいました。「なぜ自分だけがこんな目に遭わなければならないのか?」「どこで道を踏み外してしまったのか?」「あのときにああすればよかった……」と、ひたすら自分の運命を呪っていました。
つまり、自分の周りで起きていることすべてを他人や環境のせいにして、自らを省みることをしなかったのです。