※本稿は、吉岡友治『ややこしい本を読む技術』(草思社)の一部を再編集したものです。
なぜ「ややこしい本」を読む必要があるのか
「至福の読書」体験がない人には、すべての本が『法華経』のように見えるかもしれません。でも、読書好きでも「ややこしい本」は『法華経』のようなものです。
「読まなきゃならない」とされ、自分でも「読まなきゃ」と思う本は、なかなか取りかかれない。やっと読み始めても「楽しい! 楽しい! 楽しい!」とはなりにくい。でも、何とかして読まなきゃならないし読まなきゃ後で後悔する、と気ばかり焦る……。そういう、自分にとっての「ややこしい本」が何か、は個人の必要や時代・社会の状況によって違うでしょう。
『更級日記』の時代には、極楽往生に導くお経だったかもしれないが、近代労働者なら、自分たちの貧しさを経済・社会から解明する『資本論』や『共産党宣言』かもしれません。大学生だったら『刑法綱要』や『西洋経済史』『解析概論』あたりかもしれない。
いずれにしても、自分の生き方や周囲・社会や宇宙のあり方を教えてくれ、その後の人生において、さまざまなヒントと参照元になるのが「ややこしい本」と言っていいでしょう。
とはいえ、それは専門書・学術書とは限りません。専門書・学術書は、その世界にどっぷり浸かった人のためのものです。読む人も少ないので、そもそも本の形は取れず、当該分野の細かく深い知識・情報を集めた「論文」の形になることも多い。
資本論を読み進めるのは苦行だった
でも、「ややこしい本」は、まとまった一冊の本の形になっていて、対象についての全体像を与え、周辺分野との関係も示し、現代社会で生きていく我々に何らかの有益な示唆を与えてくれます。だから、専門家以外の人も読むし、商業的な書籍という形が取れる。
ただ、菅原孝標女があれほど熱中した『源氏物語』だって、現代人が原文で読もうとしたら、注や訳も参照しなければなりません。一度にたくさんは読めず、スピード感も失せる。
「ひるはひぐらし、よるはめのさめたるかぎり」なんてリーディング・ハイな状態にはたどりつけない。一頁読むたびに注や説明と本文を行ったり来たり「うーん、この理解でいいのか?」と迷う。
私は、マルクスの『資本論』を大学時代に読んだことがありますが、「資本論、楽しかった!」という想い出はありません。むしろ「大変だった」「長かった」「苦しかった」という記憶ばかり。それでも、読み終わったときには「よくやった!」と自分をほめたくなったのですが、それは後のこと。そのときはただただ苦行に近い体験でした。