選挙は「ハズレ」エピソードのほうが有権者に刺さる
選挙では、「ハズレ」であるこの貧乏が、大きな武器に変わります。というのも、どれだけ人々の共感を得られるかが重要だからです。貧乏話は人々の共感をよびます。実際には、貧乏の話そのものよりも、貧乏でくやしかったことや苦しかったことがみんなの共感をよぶようです。そもそも富裕層は国民の1割にも満たないのですから、当然といえば当然です。
一方、裕福な家庭で育った「アタリ」候補者は、少なくとも自分の経歴についてはそれほど語ることがないように思います。選挙で「私は金持ちの家に生まれました」なんて言ったら、人々から反感をもたれることでしょう。
これはあくまでも一例ですが、家が貧乏だからすべてマイナスかというと、決してそういうわけでもありません。貧乏だから大切なことに気づくこともあるし、「貧乏だから頑張ろう」という動機につながることもあります。
「親の年収が子どもの学歴に影響する」という統計はありますが、親ガチャが「ハズレ」だったとしても、それで自分の人生をはじめからあきらめるのは、もったいない気がしてなりません。
貧乏でなければ人生が裕福になるとは限らない
よく「やる気スイッチ」なんて言いますが、厳しい環境があってこそ、心がふるえるような気づきや自分自身の頑張りにつながることもあると思います。
「親が子どもに理解がない」という理由で、自分の道をあきらめようとする人もいるかもしれません。
でも、考えようによっては、親に中途半端な理解があると、子どもはかえって親に気をつかって、顔色をうかがいながら自分の道を決めてしまうこともあります。
そういう意味では、いっそまったく理解がない親のほうが自由にできるものです。だから、親がまったく無関心ということも、必ずマイナスになるとは限りません。
「うちは貧乏だから」とか、「親の理解がないから」とか言うのは個人の自由です。
でも、そのときに少し考えてみてください。
もし貧乏でなければ、人生はよりよくなったのでしょうか。親の理解があったら、人生は成功したのでしょうか。
冷静に考えてみて、もしそれが「自分が何かをできていないこと」に対する言い訳だとしたら、「やる気スイッチ」を入れるべき時期が来たということなのかもしれません。
さらにいうと、本当に「ハズレ」だとしても、「この親でなければ」と不満を言うより、「生まれた家庭環境によって自分の道を閉ざすような社会」のほうに目を向けて、そんな冷たい社会を変えていく方向へと、発想を転換してはいかがでしょうか。