当時では異例だった母子密着

茶々の主張から感じられるのは、彼女と秀頼の強い結びつきだが、この時代、母子がこうも強く結ばれることは一般的とは言えなかった。なぜかというと、戦国武将の子息は正妻や生母ではなく、乳母が育てるのが一般的だったからである。

その理由を福田千鶴氏はこう書く。「母が自ら子を育てると、母子の情が生じてしまい、母は子を戦場に赴かせることができなくなり、子も母を想って戦場で死ぬことを躊躇うようになるからである。そうなると、武士として生きることは難しくなる。つまり、鶴松を立派な武将に育てようとすれば、母から離して女房たちの手で育てさせることが武家社会の慣習に基づいた育児であった」(『豊臣秀頼』吉川弘文館)。

鶴松とは、天正17年(1589)5月に秀吉と茶々のあいだに生まれた第一子のことで、武家社会の慣例どおり女房たちの手で育てられたが、同19年(1591)8月、数え3歳で死去してしまった。このため、茶々が第二子の拾(のちの秀頼)を身ごもると、秀吉は朝鮮出兵の本陣の名護屋城(佐賀県唐津市)から寧に、次の子は「二の丸殿(茶々のこと)ばかりの子にてよく候はんや」、つまり、生母である淀殿だけで育てることでいいのではないか、と書き送っている。

その言葉を裏づけるように、秀吉は拾が生まれたのち、茶々に母乳が足りているかを尋ね、乳がよく出るように食事をしっかりとるよう指示している。福田氏は次のように記す。「武家社会の慣例に反し、生母自らが養育にあたることを秀吉が公認したことで、茶々と秀頼は母子の深い愛情で結ばれていくことになる」(『豊臣秀頼』)。

方広寺再建は淀殿の意向

家康が慶長8年(1603)、征夷大将軍に任官してしばらくすると、秀吉の正室の寧は出家し、一歩引いた立場で秀頼を後見するようになった。この時代としては、息子と特別な愛情で結ばれた生母の茶々は、それ以後、大坂城内において、秀頼を単独で後見するようになるのである。

そして、大坂城に蓄積されていた財産の管理にも、茶々の意向が色濃く反映されることになる。大坂の陣にいたるまで、方広寺をはじめとして、秀頼による社寺の造営が盛んにおこなわれたが、これも事実上は、神仏を厚く信仰する茶々の意思であったと指摘されている。

方広寺、京都府京都市(写真=663highland/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons

ところで、家康が将軍宣下を受けたのち、その孫娘(秀忠と、茶々の妹の江の娘)の千姫が7歳で秀頼に嫁いでいる。前出の曽根勇二氏によると、当時、イギリス人やスペイン人はこの状況を、家康が孫娘を大坂に送り込んだうえで、秀頼らを大坂城内に幽閉していた、という見方をしていたという(前掲書)。

そうであれば、その密閉された世界において、母子の密着度がさらに増していったことは想像に難くない。