なぜ豊臣家は滅亡したのか。歴史評論家の香原斗志さんは「理由のひとつに、淀殿と秀頼の母子密着が挙げられる。息子をかわいがるあまり、家康の要求をすべてはねつけてしまった」という――。
淀君(茶々)の肖像画
淀君(茶々)の肖像画(写真=「傳 淀殿畫像」奈良県立美術館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

淀殿・秀頼が家康に対抗し続けたワケ

天正元年(1573)9月、織田信長に攻められた小谷城(滋賀県長浜市)が落城し、父の浅井長政が自刃した際、母で信長の妹の市、2人の妹とともに救出される。次に、およそ10年後の天正11年(1583)4月、母が再嫁した柴田勝家が籠もる北ノ庄城(福井県福井市)が豊臣秀吉に攻められて落城した際は、母は夫とともに自害したため、妹2人とともに逃がされた。

こうして10代前半にして二度も落城を経験し、そのたびに肉親をふくむ周囲の人たちの死を経験してきた生い立ちを考えれば、淀殿こと浅井茶々が表裏のある複雑な性格に育ったのも無理はない。

NHK大河ドラマ「どうする家康」では、茶々は北ノ庄城が落城したとき、助けに来なかった徳川家康を恨んだ、という伏線が描かれた。家康は少年のころ市に、危機のときには助けに行くと約束したのに助けに来ず、市を見殺しにした。だから娘の茶々は家康を恨んだのだ、という設定だ。

しかし、家康が少年時代に市と会ったという記録はない(家康が織田家の人質だったころ、市はまだ生まれていなかった可能性がある)。また、秀吉が柴田勝家を攻めた時点では、家康は勝家と敵対していたので、そもそも家康が市を助けにくる可能性が取り沙汰されること自体、ナンセンスである。

もっとも、茶々が息子の豊臣秀頼を立てながら、家康に対抗し続けたことはまちがいない。その背景には、この時代としては特殊ともいえる母子の関係があった。