「大坂の陣」を予見していた伊達政宗
伊達政宗。独眼竜のこの武将が、並の人物ではなかったことを雄弁に物語る複数の書状が残っている。堺の商人の今井宗薫に宛てたもので、慶長6年(1601)4月18日付の書状には、大坂方の施策に周囲への配慮がないことを指摘したうえで、牢人らが謀反でも起こせばとんでもないことになるので、秀頼を大坂から伏見に移すか、幼少のあいだだけでも江戸に移すかしたほうがいいのではないか、という旨が綴られている。
また、4月21日付の書状にも、秀頼が幼少のうちは家康の側に置き、その後は、太閤の息子であっても日本を統治する能力がなければ、家康にまかせて2、3カ国を治めるにとどめるようにしたほうがいい。謀反を起こす輩が現れ、秀頼が切腹するようなことにでもなれば、亡き太閤のためにもならない――。そんな内容である。
曽根勇二氏は「すなわち政宗は、すでに関ヶ原の戦い直後の段階から、大坂が有する重要性を充分に認識しており、いずれ大坂の地をめぐる争いがあることを見抜いたのである」と記す(『大坂の陣と豊臣秀頼』吉川弘文館)。事実、14年後の大坂の陣を、そのまま予見しているようである。
その後も政宗は宗薫に、家康側近の本多正信を通して自分の考えを家康に伝えてほしいと、何度も書き送っている。政宗の構想が実現していたら、豊臣家は長く存続したかもしれない。
徳川に臣従するくらいなら秀頼を殺す
政宗の意見が採用され、家康方から大坂に、秀頼を家康のもとに移すようにとの働きがけが、実際にあったかどうかわからない。だが、仮にあったとしても、茶々がそれをはねつけていたことは、以下の事例から容易に想像できる。
慶長10年(1605)4月16日、家康の嫡男、秀忠への将軍宣下があった。その翌5月、家康は高台院(木下寧、秀吉正室の北の政所)を通じて、秀頼がそれを祝いに上洛するように求めている。ところが、茶々は猛反対したようで、『当代記』には次のように記されている。
「秀頼公母台、是非共其儀有之間敷者、若達而於其儀者、秀頼公を令生害、其身も可有自害の由、頗宣間」。すなわち、秀頼公の母君は、そんなこと(上洛)はあってはならず、どうしても上洛しろというなら、秀頼公を殺させて、自分も自害するとしきりにいうので、という内容である。
息子を殺してでも拒むというのだから、上洛を拒否する主たる理由は、徳川家に臣従することなど絶対にできないという、豊臣家のプライドを重視してのことだと思われる。加えて、福田千鶴氏は「まだ十五に満たない秀頼を上洛させることに生命の不安を感じたことも茶々が頑に反対した理由であろう」と書く(『淀殿 われ太閤の妻となりて』ミネルヴァ書房)。