実行役の僧侶は大出世
ただ、この厳久については、花山天皇の出家に関わる以前のことは、何もわかっていない。もちろん、そんな身元も不確かな僧侶であるから、花山天皇の出家があった時点では、何かしらの役職に就いてもいなかっただろう。彼をめぐっては、そもそも、どうして宮中に出入りできたのかが不思議なほどである。
ところが、この厳久は、花山天皇が退位して一条天皇が即位するや、にわかに陽の当たる場所に顔を見せはじめる。
彼の最初の晴れ舞台は、永延元年(九八七)の五月に摂政兼家が催した大きな仏事であった。『小右記』によれば、厳久は、その仏事において、人々に説法をする講師の役割を与えられたのである。ちなみに、権力者が主催する大きな仏事で講師を務めることは、王朝時代の僧侶たちにとっては、出世の階段に足をかけることと同義であった。
やがて、長徳元年(九九五)十月、朝廷から権律師に任命された厳久は、ついに高僧の仲間入りをする。そして、藤原行成の日記である『権記』によれば、これは、東三条院詮子の推挙によるものであったらしい。また、厳久は、新たに建立された慈徳寺に別当(責任者)として迎えられることになるが、この慈徳寺は、東三条院詮子が建てた寺院である。
藤原氏の全盛期はこうして生まれた…
その後も、長保元年(九九九)に権少僧都に転じた厳久は、同四年には権大僧都へと昇進する。また、それとともに、ずっと慈徳寺別当をも務め続けた厳久であるが、彼の目立った活躍の場は、ほとんど常に、東三条院詮子こそを檀主とする慈徳寺での仏事であった。
かくして、厳久が詮子に従属する身であったことは、疑うべくもあるまい。そして、その厳久こそが、花山天皇の出家をめぐって最も重要な役割を果たしたのであれば、花山天皇を出家させるという謀略は、やはり、東三条院詮子こそが主導したものであったろう。