大坂夏の陣の道明寺合戦で鉄砲を撃ちまくった政宗
上杉家でも密かに鉄砲の製造がされていたが、政宗ほどの装備率には至っていない。ここまで鉄砲を集中装備した大名は政宗だけだろう。
その後、鉄砲装備率が政宗ほど上がらなかった理由の一端は徳川幕府の施策にある。大坂落城後、徳川秀忠が諸藩の軍制を見直し、統一基準を定めて、長柄鑓の装備率を大幅に上げさせたからである。
政宗は「冬の陣」では戦闘も控えめで、あまり目立ってはいなかったが、翌年の「夏の陣」で薩摩の島津義弘(惟新公)から「諸大名衆笑物にて比興」と酷評されるとんでもない伝説を残す(『薩摩旧記』)。
幕府が装備率を指定するに至った理由は、まさにこの大坂夏の陣にあった。
政宗は冬の陣同様、先鋒を除く諸隊を鉄砲隊ばかりで固めた。
そして大坂城総掛かりの前日に起こった道明寺合戦で、大坂方の勇将・後藤基次と交戦した際、政宗は大量の銃撃を浴びせて基次を退かせた。そのはげしさは異常で、政宗は敵味方構わず撃ち放ったという。
おかげで勝利をもぎ取ったが、味方であるはずの大和国衆神保隊は政宗の銃撃で全滅。しかも交戦中に弾切れとなった。このため、大坂から後藤勢の救援にやってきた真田信繁を追撃することができなかった。
決戦のときは弾切れで家康を真田軍から守れなかった
そして翌日の決戦において、信繁が家康本陣に決死の突撃を仕掛けた。政宗は家康のすぐ側に布陣したが、前日の弾切れで政宗は継戦能力を完全に喪失していた。
このため、真田隊の猛攻を阻止することもできず、家康本陣が崩壊するのを傍観していたらしい。諸隊の奮闘により、信繁は討ち死に。家康は何とか一命を取り止めた。そして、その日のうちに大坂は落城し、豊臣家も滅亡。ここに日本は元和偃武と呼ばれる天下泰平を迎えることができた。
だが、さすがに秀忠も政宗の編成に疑問を抱いた。
政宗は調子がよく、これまで厚遇してきたつもりだが、打ち上げ花火のようにパッと煌めいて、その後は弾切れで安全圏から合戦を傍観する。こんな振る舞いが許されていいのだろうか。そう考えて編成の基本ルール作成を検討したのであろう。
翌年、秀忠は軍役の基準を発し、幕府軍の基礎を築く。
ここで秀忠の定めた兵種の比率は、大坂の陣で政宗が使った陣立とは全く異なり、新時代に適しているはずの鉄砲の大量投入が控えられ、代わりに長柄の装備率が高いものとなった。もちろん将軍旗本だけの基礎編成であるが、おおむね諸国の大名もこれに近い編成を使うようになり、政宗のような飛び抜けて偏った装備の配分は消えていく。
しかも、この編成思想は幕末まで変化することがなかった。
偏りすぎた兵種装備を行わせない──それが近世日本における用兵思想の原則となった。政宗の独自編成は、近世軍隊の反面教師となったのである。
この歴史を、泉下の政宗も笑って眺めていたであろう。