順風満帆な出世街道だったが
有名なのが寛平6年(894)の遣唐使の停止だろう。遣唐大使に任ぜられた道真は、「遣唐使を停止すべきだ」とする建白を出し、承諾されたのである。すでに唐の文化を学び尽くし、かの地の治安も悪化しており、60年近く遣唐使は派遣されていなかったからだという。
寛平9年(897)、宇多天皇は13歳の息子・敦仁親王(醍醐天皇)に譲位した。このとき宇多は醍醐に「道真と藤原時平の助言を得て政治をとるように」と訓戒している。このため醍醐天皇は、道真を右大臣にした。
昌泰4年(901)正月7日には、時平とともに従二位に昇進している。中級貴族が藤原氏と肩を並べた瞬間である。ところがわずか18日後、大宰権帥に落とされ九州の大宰府に左遷されることが決まったのである。
醍醐天皇は、宣命(和文体で記した天皇の言葉)でその理由を明らかにしている。
「朕が即位した際、父・宇多上皇の詔によって、左大臣・時平らと協力して政治をおこなうように命じられた。なのに低い身分から大臣にのぼった道真は、分をわきまえず権力を独占した。宇多にへつらい欺き、その気持ちを思いやらずに皇位の廃立をたくらみ、父子、兄弟の慈しみや愛を破ろうとした。これは皆が知っていることだ。ゆえに右大臣の地位はふさわしくないので大宰権帥とする」
「悲劇のヒーロー道真」は本当か
つまり、道真は宇多上皇の寵愛をいいことに思い上がり、醍醐天皇に譲位させて斎世親王を擁立しようとしたというのだ。斎世親王は醍醐天皇の弟にあたり、道真の婿でもあった。
道真を天神として祀る北野天満宮の由来を描いた『北野天神縁起絵巻』(13世紀に成立)は、道真は無実であり、時平が醍醐天皇に讒訴したとしている。道真自身も、「あめのした逃るる人のなければや着てし濡れ衣干るよしもなき」(『拾遺和歌集』)と、自分は濡れ衣を着せられたのであり、無罪だとする和歌をつくっている。
鎌倉中期の『十訓抄』、『古今著聞集』にも時平の讒言説が見られ、以後、この説が後世に踏襲されていく。無実の罪で左遷させられた悲劇のヒーロー道真に対し、己の権力のために道真を追い落とした悪人時平という形が史実として定着していくのだ。