11歳になった秀頼は内大臣になるが、家康がついに将軍に
このときの茶々の症状も、2年前と同じく「気鬱」であり、さらには胸がつかえて痛みがあり、まったく食事を摂ることができず、時には頭痛もした、というものであった。茶々は2年前に次いで、再び「気鬱」に罹っていたことが知られる。
この直前の4月20日、秀頼は内大臣に昇任していた(『時慶卿記』)。いうまでもなく、これも家康の取り計らいによる。わずか11歳での内大臣への就任であり、かつ昇任したのであるから、本来ならば喜ぶべきものであろう。ところが、その8日前の2月12日に、家康は征夷大将軍に任官、さらに内大臣から右大臣に昇任していた。これによって、家康を主宰者とする新たな徳川政権(江戸幕府)が、名実ともに誕生するにいたっていた。
そもそもその直前まで、先に触れたように、秀頼は関白に就任するのではないかと噂されていたことからすると、関白への任官ではなく、内大臣であったことに、ひどくがっかりしたことは充分に推測できる。とはいえ関白は、名目的には天皇の後見役であるから、いかに羽柴家の当主であるとはいえ、11歳の少年の任官は難しいように思われる。むしろ11歳にして、家康の次の地位である内大臣に任官しているところに、羽柴家がいまだ「豊臣関白家」としての格式を維持していたと評価することが可能である。
既に公家衆は家康が武家のトップだと認めていた
しかし茶々は、どう思ったのであろうか。前年の慶長7年(1602)2月、家康が源氏長者に就任するという動きがあった。これについて家康は、今年は時期が悪いとして、辞退したのであったが、源氏長者就任は、いうまでもなく将軍任官に等しい行為であった。家康の辞退の背景に何があったのかはわからないが、いまだ島津忠恒との和睦が成立していない状況であったことからすると、「天下一統」が遂げられていなかったためかもしれない。
そして同年12月に、薩摩の島津忠恒が家康に出仕し、列島すべての大名が家康に服属することになると、その直後に、家康もしくは秀忠が将軍に、秀頼が関白に任官するとの噂がでてくることになる。公家衆たちは、島津服属により、徳川家が将軍に任官することの障害は完全に除かれたと考えたらしい。このことはすでに、公家衆は徳川家の将軍任官を当然のことと認識していたことをうかがわせる。問題になっていたのは、単にその時期だけのことのように思われる。