さて、こんな時代だからこそ、ぜひ読んでほしい本がある。それは経済学の本でも、金融や哲学に関連する本でもない。『藤沢周平全集(全26巻)』である。私はこの全集をすでに2回読んでいるが、それほどに引き込まれる作品ばかりが揃っているのだ。
私が藤沢氏の小説に初めて出合ったのは、デビュー作の『溟い海』だった。40歳を超えてほどなくの頃だったと思う。葛飾北斎が若い安藤広重に嫉妬するさまを描いた作品だが、どこか暗い感じの小説だったことを覚えている。
73年に直木賞を受賞した『暗殺の年輪』あたりから、作風がだんだん明るくなり、物語としても面白くなっていった。
その文体は、簡潔にして明瞭、精緻かつ端正。巧みな文章で綴られた作品は、どれをとっても一つとして手を抜かれているということがない。どの作品も読み進むにつれて、なんともいえない人間の姿、形、香りの高さ、凛とした張りつめた空気が読み手の五感を心地よく刺激してくれるほどだ。まさに、日本で最も文章がうまい作家といってよいと思う。
上杉鷹山のような名の知れた武士だけでなく、下級武士、貧しい者であっても、背筋をきちんと伸ばした人々が描かれている。いわば藤沢作品は、日本という国をつくりあげていった、人間としての誇りをまとった登場人物によって見事につくりあげられているのだ。
妻に対する思いやり、わが子に対する親の真の愛情、そして、息子が父親に対して抱く尊敬の念などが、端正な文体の行間から滲み出るような作品ばかりだ。
代表作の一つ、『蝉しぐれ』では、下級武士の家に生まれた少年藩士が、運命に翻弄されつつ過酷な日々を過ごしながら成長し、やがて自らの運命に立ち向かう。人間はどんなふうに生き抜いていかなければいけないのか。どんなことがあっても、最後まで志を失わずに生き抜いていくことが大切で、その志が「人」をつくっていくことを教えてくれる。
伝記物では、新井白石を描いた『市塵』がある。とにかくどんな不幸な目に遭おうと、自分自身というものを揺るがすことなく生きていく主人公の姿を描写している。