母と同様、滅びる城を見ながら死んでいった
そのうえ、大坂城を攻めている軍勢の大部分は豊臣恩顧の大名連中であった。2年間も城を囲んだとすれば、みんなバラバラで統制がとれなくなり、徳川家の大失敗となったであろう。大坂城は10年ぐらいは戦える武器、食糧を備えていた。つまり抜群のロジスティクス能力を備えていたわけで、たった2カ月も戦わないうちに和議などに応じてはならなかったのである。
だからあの時に、淀殿は「和議に応じてはなりませぬ」という真田幸村を筆頭とする武将の言うことを聞いておけばよかったのだ。結局、淀殿は自分の母親同様、城の滅びるのを見て死んだわけである。
『真田幸村』を読む者からすると、彼女に同情することはなかなか難しい。
「豊臣家を滅ぼすために生まれてきた女性」
ただ、家康は器量の大きい人だから、そう無闇に豊臣家をつぶそうとしたわけではなかったようである。秀吉にしても、信長の子供を大名に登用したり、自分のお伽役にもしている。
実際、淀殿と秀頼についても、大坂城にいて浪人を集められては困るが、「和泉の国あたりで六十万石の大名でどうか」という打診が家康側からなされていたのである。仮にそれに満足していれば、豊臣家は保たれたことになる。それを蹴ったのは淀殿に違いないわけだから、やはり、豊臣家を滅ぼすために生まれてきたのが彼女という結論に落ち着く。
大坂の戦いの異常なのは、和戦の交渉の中心が女性たちだったことである。家康は阿茶局や常高院を使い、大坂方は大蔵卿局(淀君の乳母、大野治長の母)、正栄尼(渡辺内蔵助の母)、二位局(渡辺筑後守の母)などを交渉役にし、主役は淀君である。徳川家には女性を使う家康がいたが、大坂方には女性を使う女性(淀君)がいただけであった。
ある心理学者が「淀殿には小谷城を落とした秀吉に対しての深い恨みが潜在意識的にあって、豊臣家をつぶしたのだろう」との説を述べているが、むろんそれは考え過ぎであろう。