次女・お初は大坂冬の陣を終わらせた立役者

京極家は足利時代の名家で、室町時代には近江の北半分の守護職、侍所の所司も任されていたとはいえ、次第に勢力は衰えてきていた。信長時代には五千石が、秀吉時代のお初の輿入れの頃には一万石が、さらに大津六万石が与えられた。

関ケ原の戦いの際、お初は夫高次に対して、「東軍につきなさい」と忠告をするなど、非常に目先の利く女性であった。高次は大津城を守ろうとしたが、守り切れずに高野山に逃げた。

しかし、一応西軍の足止めをしたことによる論功行賞で、家康から四十万石を提供されたが、高次はそれを辞退、若狭小浜に八万五千石を与えられた。夫の死後、お初は剃髪ていはつして常高院となった。

常高院
常高院(画像=常高寺所蔵、福井県立若狭歴史民俗博物館寄託/PD-Art (PD-Japan)/Wikimedia Commons

慶長19年(1614)大坂冬の陣の際、家康の命令によりお初は家康の側室阿茶局と一緒に大坂城に入り、実姉の淀君と秀頼を説得して、大坂冬の陣を終わらせるという大手柄を立てている。

お江の3度目の結婚相手は徳川秀忠

次は三女のお江である。お江のことを小督おごうの方と呼ぶ人もいる。お江は14歳の時に尾張大野城の佐治一成・五万石と結婚する。夫佐治一成の母親は信長の妹で、やはりこれもいとこ同士の結婚であった。従って、茶々、お初、お江の3姉妹の中で、お江がもっとも早く嫁いだことになる。

お江
お江(画像=『戦国大名浅井氏と北近江』長浜市立長浜城歴史博物館・編/養源院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉は一成配下にある歴戦の佐治水軍が欲しくてお江を輿入れさせたといわれているが、ある時から一成の豊臣家への出入りをストップさせ、2人を強引に離婚させる。次にお江は、秀吉の姉ともの子供の羽柴秀勝と結婚するが、秀勝は朝鮮に出兵して病死してしまう。

そして、3度目の結婚相手が家康の後継者の徳川秀忠であった。これもやはり秀吉の差し金だった。秀忠17歳、お江23歳で、お江のほうが年上だった。慶長10年(1605)、秀忠が二代将軍になった時、秀忠は27歳、お江は33歳ということになる。

この夫婦は仲がよくて、家光、忠長の2人の男子と5人の女子、計7人も子供をつくった。7歳の時に11歳の豊臣秀頼と結婚させられた長女の千姫は、大坂城が滅びた時には助かっている。

男子については、家光は春日局が、忠長はお江自身が育てた。ところが、春日局の直訴により、家康が家光を嗣子ししと定め、三代将軍問題は落着する。お江の末娘和子は後水尾天皇の中宮、後に東福門院となった。