江戸末期にロシアと不平等条約を結ばされる

ロシアではすでにピョートル大帝のころから漂流民を先生にして日本語の学習を始めたりしていた。1782年に難破してロシアで助けられ、エカテリーナ2世とも謁見した伊勢の大黒屋光太夫を連れて、1792年にラクスマンという船長が根室に来て、丁重に通商を提案した。

その後、レザノフが1804年に長崎に現れて通商を申し出たときにも幕府は拒否したが、ナポレオン戦争が起きてロシアの圧力は一時的に弱まったので救われた。結局、1853年のペリー来航を受けて、幕府は1855年にロシアとも日露和親条約を結んだ。これは、米国に対してと同様、ロシアに一方的な最恵国待遇を認める不平等条約だった。

この間、松前藩や幕府の役人たち、あるいは樺太に派兵された各藩の武士たちの持ち場での努力は立派なものも多かった。

もっとも、樺太に派兵された会津藩兵など、宗谷海峡をつるで作った網で封鎖しようとしたり、3カ月ほど滞在した後にロシア兵が来ないといって引き上げる途中で難破して、武器も失って命からがら帰国したりと、全てが立派だったわけでない。

北方四島の一部が返還される可能性もあった

いすれにせよ、国を挙げて真剣に海防に取り組んだわけでないので、日露和親条約では、択捉と得撫島のあいだを境界とし、樺太は雑居の地としたが、ロシアに圧倒され、明治になって樺太千島交換条約でロシアに取られてしまった。

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北方領土問題というと、国後・択捉・歯舞・色丹の四島の帰属をめぐって日露両国が角を突き合わせているが、この四島自体の経済価値は低く、両国どちらにとっても第二次世界大戦の経緯をめぐるメンツを守るための戦いだ。

ロシアは絶対に譲らないという人もいるが、プーチン大統領は難しい国境問題を次々と解決しており、「引き分けにしよう」という安倍晋三元首相への提案は、不真面目なわけではなかった。国後を含めた三島の返還とか、二島+残り二島の特別の地位を認めるなどの案があり得た。

それもこれも、ウクライナ戦争で日本が極端な形で欧米側についたので、実現は難しくなったが、それについては、ここでは議論しない。

それよりも日本が反省すべきなのは、鎖国とか専守防衛といった消極策で周囲とのトラブルを避けることだけに汲々としていると、自国の軒先まで他国のものにされてしまうということだ。