秀吉の死後、関ヶ原合戦前の重要局面「小山評定」では……

関ヶ原の戦いは1600(慶長5)年、家康率いる東軍10万と、毛利輝元を総大将に三成を中心とした西軍8万の間で起きた合戦です(軍勢の数には異説あり)。戦いの詳細については触れません。私が強調したいのは、天下人が行なった軍事革新ですので、その視点から述べていきます。関ヶ原の戦いについてお知りになりたい方は、戦場の地点に着目した拙著『壬申の乱と関ヶ原の戦い なぜ同じ場所で戦われたのか』をご覧ください。

関ヶ原に向かう以前の緊迫した一件と言えば、小山おやま評定でしょう。小山評定とは、徳川軍が上杉景勝を討伐するために会津に向かう途中、本陣を置いた小山(現・栃木県小山市)において、三成挙兵の報が入り、家康が急遽諸将を招集した軍議のことです。「このまま上杉を討つべきか、反転西上して三成を討つべきか」を質したのです。

諸将の多くは豊臣恩顧の武将であり、しかも西軍が支配する大坂に妻子を残しています。いつ西軍についてもおかしくありません。家康にとって、彼らの去就こそ勝敗の境目でした。小山評定について最近検討されているようですが、結局、家康は諸将と向き合う必要があった。

秀吉の子飼いの家臣たちに「三成を討つか」と迫った家康

その意味では、「どこでどのように」という要素はあまり重要ではありません。そうではなくて、秀吉子飼い筆頭格の福島正則が一番に家康のために戦うことを誓い、続いて山内一豊らが兵糧米の供出を申し出た。そのことが大事なのです。その結果、家康率いる東軍は三成討伐のために西上することを決したのです。

「福島正則画像」(画像=東京国立博物館所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

家康にとって、関ヶ原の戦いの展開は織り込み済みだったでしょう。西軍の総大将の毛利輝元が動かないことも、小早川秀秋が寝返ることも。そのうえで、勝敗の帰趨きすうも確信していました。エビデンスを示します。

家康は、戦場に側室のお梶の方を帯同していました。家康が武田氏と対峙たいじしていた20年間における子づくりの少なさとは対照的です。また、豊臣秀吉が小田原征伐で淀殿を呼んだことに似ているかもしれません。必死の戦いなら、戦場に女性を連れてきません。家康は「この戦は勝てる」と確信していたとしか考えられないのです。

結局、西軍でまともに戦ったのは石田三成、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継くらいで、6時間で決着がつきました。