たぶん日本で始めてのビデオショップ

吉祥寺・中道通りにあるVIC(ビデオ・インフォメーション・センター)3号店。1988年開店。開店当初は各種ビデオテープと機材を揃えた店だったが、今は自転車や家庭雑貨など、面白そうなものはなんでも扱っている。

【三浦】就職はしていないんですね。

【手塚】幸運にも一度もしたことないんですよ(笑)。学生時代の1972年に、学内有線テレビのグループを始めて。これがビデオ・インフォメーション・センターの前身。当時、ソニーが「ポーターパック」というビデオセットを50万円ぐらいで出していて、学校の牧師さんからお金を集めてそれを買って。でも、ぼくが卒業するほとんど間際だったんで、1年生をかき集めて、騙すようにグループをつくって、すぐ翌年に卒業しちゃったんです。

卒業して、「じゃあ、外でも同じようなことやろうか」って、演劇や舞踏の撮影を仕事にしてみたんだけど、そのころ、ビデオテープの値段が1時間1万円もしたんですよ。それを50時間も撮ると月給5万円ぐらいにしかならない。体の具合も悪くなって「こりゃ駄目だ」と。じゃあ、ビデオデッキを売る商売でもしようか、と吉祥寺に店を出しました。ソニー、ビクター、パナソニック……そのころはナショナルって言いましたけど……と契約して、これは儲かりましたね。

【三浦】それがいつごろですか?

【手塚】ビデオ専門店に辿り着くまでけっこうかかって、始めたのが1979年。ビデオの機材の販売だけでなく、レンタルとか、編集、ビデオ撮影教室なんかもやっていました。

【三浦】そのときにはもう「ビデオ・インフォメーション・センター」という今の名前だったんですね。

【手塚】そうです。会社組織にして。けっこう真面目なんです(笑)。大学のときにつくった「ビデオ情報センター」の名前をそのままずるずる引きずって。

【三浦】じゃあ、店を開くまで10年近く、撮影の仕事をしていたんですね。

【手塚】そうです。あの頃撮ったものが今、文部科学省から予算が出て、デジタルのビデオアーカイブになったりしています。その前に、MOMAのキュレーターが来て、MOMAに収蔵するから50品目決めろとか言われたこともありました。

【三浦】紅テントとか、当時のアングラ演劇を撮影していたんですよね。

【手塚】そうです。舞踏の大野一雄とかね。

【三浦】吉祥寺に店を開いてからは、実際にはどんな仕事をしていたんですか。

【手塚】当時20万円ぐらいのビデオデッキを売っていました。

【三浦】79年で買う人いたんですか。

【手塚】いたいた。たぶん日本で始めてのビデオショップだったんですよ。「ビデオサロン」という雑誌で、小さな宣伝広告を出したら、北海道からも九州からもお客さんが来た。電気通信大学のオタクもたくさん来た。20万、30万円のビデオデッキやビデオカメラをみんな買うんですよ。ソニーのベータマックスをつくった、みんなの憧れの技術者を呼んでパーティーをやったりすると20人ぐらいお客さんが集まって、30万円のビデオデッキを10台とか予約してくれる。それだけで300万円。でも全部ビデオテープに使っちゃったんだよ(笑)。

【三浦】当時のビデオカメラだと、まだ重かったでしょ。

【手塚】重かったですね。でも、それで電通大のオタクが、今で言う「セーラームーン」みたいな映像つくったりしてるんですよ。いやあ、変わった人たちがいるんだなと思って。

【三浦】79年に店を始めて、何年かするとビデオが一般に普及してきますよね。

【手塚】そうです。1995年を過ぎたあたりでもう2、3万円。98年にはビデオデッキが1万円を切り始めた。これはもう、この仕事は終わったなと。ソニーも自前のソニーショップをつくって量販店に対抗しようとしたんだけれど、結局はヨドバシ、コジマ、ヤマダに敗れていく。ああいう仕事、店頭に立って叫んで売ってなんて商売は、ぼくには向いていないだろうなあ、と思って。ぼくの短い人生で、あんなことするのは嫌だなあと思っていました。

■ポーターパック
1964年にソニーから発売されたオープンリール式可搬型ビデオレコーダー「CV-2000」と、66年に発売されたポータブルビデオカメラ「DVC-2400」のセット名称。
■MOMA
Museum of Modern Art. ニューヨーク州マンハッタンにある近現代美術専門の美術館「ニューヨーク近代美術館」の略称。1929年開館。
■紅テント
あかてんと。俳優・劇作家・演出家の唐十郎(から・じゅうろう。脚注後出)が主宰した劇団「状況劇場」の通称。1967年、新宿・花園神社境内に紅色のテントを設営し、「腰巻お仙」を上演したのが由来。神社及び周辺商店街から排斥運動が起き、翌年に撤収。
■大野一雄
おおの・かずお。1906年、北海道生まれ。弟子の土方巽(ひじかた・たつみ)と並ぶ戦後日本を代表する舞踏家。日本体育会体操学校(現日体大)卒の元体育教師。2010年に103歳で没。

<次回予告>ハモニカ横丁の中に小さなビデオテープの店を出していた手塚さんは、ある日、その2階で焼き鳥屋を始める。なぜいきなり焼き鳥? どうしてビデオショップの経営者が、いきなり飲食を? その「ジャンプの仕方」は、そのまま手塚流マーケティングを読み解く鍵になる。三浦展さんとの対談第3回《ハモニカキッチン誕生》は10月17日掲載予定です。

(構成=プレジデントオンライン編集部 石井伸介)
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