北条の領民は「勝ち目がない」と豊臣軍に協力した

北条の防戦に協力するため城に入っても、結局勝ち目は薄いのだから、最初から城に入らず、豊臣軍に好意的な態度を示したほうがいい。

山中城が陥落すると、豊臣軍は北条領であるはずの伊豆・相模・武蔵の寺社や集落に「戦地禁制」をたくさん発給した。

戦地禁制の発給は、まず民衆が敵軍に「将士が悪さをしないよう、お触れ書きを出してください」とお願いするところから始まる。要請を受けた敵の大将は「わかりました。あなたのところで、悪いことはさせません」と、将士の狼藉を禁止する禁制を送りつける。受領した現地民は、集落の目立つところにこれを高札として掲げる──という段取りで使われる。

ということは、北条の領民たちが自発的に「わしら関白殿下の御味方になりますんで。北条? やっちゃってください」と申し出たということだ。

秀吉は小田原城に籠城する北条軍に余裕で遊んでいる姿を見せた

戦地禁制は略奪を抑止するためというより、そこを軍勢の宿屋として、また物資補給のための市場として活用するために発給された(乃至政彦『戦国大変』JBpress、2023)。

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戦地禁制には原則として「我が兵たちよ、(相手が商品として用意したものだけ特権的に取引するため)押し買いをするな」「(宿舎を勝手に建造しないよう)樹木を伐採してはならんぞ」ということが書いてある。どれも正常な商取引を成立させるのが目的である。

山中城がたった数時間で陥落したことで、寺社・商人・百姓のいくらかは北条方の命令に従わず、それどころか豊臣軍に営業をかけて、禁制を発給させ始めた。「ぜひうちに立ち寄ってください」と客寄せならぬ兵寄せを開始した。これが戦国の兵站だった。

秀吉は小田原城の眼前に石垣の山城を築かせて、遊び呆ける姿を籠城側に見せつけた。現地民の協力あっての遊びぶりだろう。「寄せ手の兵を飢えさせようとする小賢しい作戦も、ほれこのとおり。影も形もなく破綻させてやったぞ。北条氏政よ、とくと降参するがよい」というメッセージでもある。