孤立無援となった北条氏政は降伏して自害し、さらし首に
北関東から、東海道から、さらには奥州からも味方となるはずだった伊達政宗までが軍勢を連れ立って城を取り巻く。豊臣軍が兵糧に窮乏していたのは、山中城を攻める直前までだった。
関東の民衆からの協力を得た豊臣軍は、長期の継戦能力を得て、7月10日までに小田原城は降伏し、氏政と弟の北条氏照が、徳川家臣・榊原康政の陣所に入った。
豊臣軍が勝ったのは、豊臣軍の兵站が用意周到で緻密だったからではない。その物量で民心を北条方から引き剥がし、自軍へと転じさせたことが大きかった。
同月11日、2人は城下の医師・田村長伝の家に入り、「氏政、同弟奥州に腹を御切らせ候」(『家忠日記』)とあるように、速やかに自害させられた。同月16日、京都の「聚楽之橋」において梟首とされた(『兼見卿記』)。
2人の辞世が伝わっている。
氏政の辞世は「雨雲の覆へる月も胸の霧もはらひにけりな秋の夕風」(『上州治乱記』)、または「ふきとふく風なうらみそ花のはる もみち(紅葉)の残る秋あらはこそ」(『北条五代記』)だったと伝えられている。
氏照の辞世は「天地の清き中より生れ来て 旧の住所に帰るべきなり」(『太閤記』)であったとされている。
秀吉は兵糧で苦労したことを教訓とし「太閤検地」を行った
当主の北条氏直は助命され、紀伊高野山に追放された。後に1万石の豊臣大名として返り咲くもほどなく病死。
上杉景勝、毛利輝元、そして徳川家康をも従えた天下人・秀吉を相手に戦って、しかも完全勝利を模索した氏政・氏直父子の気構えは、“戦国最後の侍”といえよう。
ともあれこの勝利は、秀吉に大いなる教訓を与えた。敵軍が領民を抱き込んで徹底抗戦をする場合、大変な兵糧不足に陥ってしまう危険がある。
だから次の戦争に備えて「太閤検地」を実行し、石高制による兵糧の確保と常備を推進させた。
翌々年より始まる壬辰戦争(豊臣軍による朝鮮出兵)の戦時体制は、小田原合戦の反省をベースとして構築されていくのである。