秀吉の勢いを認めて屈した信雄は「先見の明」があったとも

浜松を訪れた佐々成政に対し、家康は「私はもとより、秀吉に遺恨はない。ただ、信雄の衰弱を見るに忍びず、また故織田殿(信長)との旧好を忘れかねて、信雄は助けたのだ。そうであるのに、この頃、信雄は秀吉と和議に及んだと聞いている。私のこれまでの信義も詮なきことなってしまった」と話しているのです。

秀吉は信雄方に圧迫を加えたため、ついに信雄は、天正12年(1584)11月、秀吉の陣所に出向き、和睦したのでした。しかし、この和睦をそれほど責めることができるでしょうか。ガムシャラに抵抗し、討ち死にすることだけが、能ではないでしょう。

秀吉に降伏した信雄は、その後、家康と秀吉との仲を仲介しています。例えば、天正14年(1586)1月27日にも、信雄は岡崎城を訪れ、秀吉と家康との仲を取り持っているのです。最終的には、家康は秀吉と和睦し、上洛することになります。そうしたことを考えた時、信雄が秀吉に早期に降伏したということは(家康に無断で和睦したとの批判はあるとしても)「先見の明」があったとは言えないでしょうか。

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神奈川県の小田原城。信雄も秀吉の小田原征伐に加わった

秀吉のイエスマンとはならず命令に背く度胸もあった

さて、秀吉に屈した信雄は、越中攻め、小田原攻めなどに従軍します。小田原攻め後、信雄は秀吉から、家康旧領への転封を命じられます。ところが、信雄は父祖の地である尾張から離れることを嫌がり、これを拒否。秀吉の怒りを買い、下野国(今の栃木県)烏山に配流されてしまうのです。信雄の短慮と言えば、これは短慮と言えるかもしれません。だが、あの強大な力を持つ秀吉の命令に背く度胸があり、意地があったと見ることはできないでしょうか。単なる気の弱いお坊ちゃんでは、そのようなことは、どだい、無理でしょう。

大河ドラマ「どうする家康」第32回「小牧長久手の激闘」では、長久手の戦勝に酔い、信雄が徳川家臣団と共に、調子良く歌い踊るシーンが描かれていました。実は、信雄、能の名手でもあったのです。