名将の哀れな最期
昭王の48年10月、秦は再び上党を平定した。そこから軍を2つに分け、皮牢と太原をも攻略したところ、韓と趙は大いに恐れ、蘇代を使者にたて、手あつい贈り物持参で、秦の宰相、笵雎のもとへ説得に赴かせた。蘇代は笵雎に、白起に対する嫉妬と競争心を抱かせ、さらにそれを煽るよう仕向けた。この工作は功を奏し、秦は攻撃の手を休め、韓・趙と和議を結んだ。白起はこの和議に不満で、これより笵雎と不和になった。
やがて趙との和議が破れたが、白起は病気のため出陣することができなかった。
そのあくる年、白起が回復したので、昭王は王陵に代えて、白起を邯鄲攻めの総大将に任じようとした。ところが、白起はつぎのように言って辞退した。
「邯鄲を攻めるのは、たしかに容易ではございません。諸侯からの援軍も続々とやってくるでしょう。諸侯はわが国を非常に怨んでおります。わが国は長平で大勝利を得たとはいえ、戦死者も多く、国内は手薄の状態です。遠く山河を越えて、人の国の都を争えば、趙の国は城内より応じ、諸侯は外から攻めてきて、秦軍の敗北は必至でしょう。邯鄲を攻めてはなりません」
昭王はじきじきに命令を下したが、白起はそれでも動こうとしなかった。昭王は仕方なく、別の将軍を派遣したが、8、9カ月たっても、邯鄲を落とすことはできなかった。
そうこうするうち、楚の春申君や魏の信陵君が援軍を率いて到来し、秦軍に攻撃をしかけてきた。そのため秦軍は多くの死傷者を出すこととなった。白起は、「わたしの献策を聞かれなかったばかりに、このざまだ」と言ったが、それを聞いた昭王は無理にでも白起を出陣させようとした。しかし、白起は重病と称し、笵雎が頼んでも、動こうとしなかった。このため白起は職を免ぜられ、一兵卒として、陰密に流されることになった。
白起への処罰はこれで終わりではなかった。咸陽の都を出立してまもなく、王から使いがきて、剣を賜い、自決せよとの命令を伝えられた。白起は剣を首にあてながら自問した。
「わしはいかなる罪を天に得て、このような最期を遂げるのか」
ややあって、彼は答えを見出した。
「当然のことだった。長平の戦いで、趙の降参した兵数十万を、偽って殺してしまった。それは十分、死に値する」
そう言って、白起は自決した。ときに昭王の50年11月のことだった。
昭王の52年、周に伝わった9つの鼎が秦の手に渡り、周が滅んだ。
54年、昭王は雍で上帝の祀りをおこなった。
56年、昭王が没して、子の孝文王が後を継いだ。孝文王が没すると、子の荘襄王が後を継いだ。荘襄王が没すると、子の政が後を継いだ。
これが秦の始皇帝である。