中国の歴史書『史記』には、天才と呼ばれた兵法家・孫臏のエピソードが記されている。歴史作家の島崎晋さんは「能力の高さから仲間から濡れ衣を着せられ、両足を切断される罰を受けた。だが、隣国に逃れて才覚を発揮し、最終的に復讐を果たした」という――。
※本稿は、島崎晋『いっきに読める史記』(PHP文庫)の一部を再編集したものです。
「お国にも宝物はござろうな」威王の答え
威王の23年、王は趙の成公と平陸において会見した。あくる年には魏の恵王とともに都の郊外において巻き狩りをした。「お国にも宝物はござろうな」という恵王の問いに、威王は、「ござらぬ」と答えた。すると、恵王が重ねて問いかけた。
「わたしの国は小さいとはいえ、それでも上等の珠が10粒もある。万乗の国でありながら、何も宝がないことはないでしょう」
すると威王は答えて言った。
「わたしの国では宝というのは、そういうものとは違っております。
わが家臣に檀子という者がいて、これに南城の守りをさせたところ、楚の軍勢はわが国の南の国境に手出しをしなくなり、泗水のほとりの12の諸侯もわが国に来朝するようになりました。
また、わが家臣に肦子という者がいて、これに高唐の守りをさせたところ、趙の軍勢はわが国の西の国境を侵さず、黄河での漁すらしなくなりました。
また、わが下僚に黔夫という者がいて、これに徐州の守りをさせたところ、燕の者は斉の北門に向かい祀りをして、斉の軍が攻撃してこないように祈り、趙の者は斉の西門に向かい祀りをして、斉の軍が攻撃してこないように祈るようになり、燕と趙からわが国へ移住した者は7千戸あまりもありました。
また、わが家臣に種首という者があって、この者に盗賊の取り締まりをさせたところ、道に落ちている物をひろう者さえいなくなりました。この4人の家臣こそわが国の宝です」
これを聞いて魏の恵王は恥じ入り、悶々としたまま去っていった。