孫臏、見事な作戦で敵を破る

以前、魏の軍勢に邯鄲を包囲され、趙から救援要請がきたとき、威王は孫臏を大将にしようとしたが、孫臏が、「わたしは刑罰を受けた身ですから、適当ではございません」というので、田忌を将軍、孫臏を軍師として、荷馬車の上から作戦の指図をさせることにした。

田忌はまっすぐ邯鄲に向かおうとしたが、孫臏は反対して言った。

「もつれた糸をほどくには、むやみに引っ張るものではありません。ただいま魏の精鋭部隊は趙との合戦に出払って、国内には老人や弱卒がいるばかりにちがいありません。あなた様は兵を率いて、すみやかに魏の都、大梁たいりょうへすすみ、都へ通じる街道を押さえてしまえば、魏は趙との戦いをさしおいて、自国の防衛に戻りましょう。そうなればわが軍は、趙の包囲を解くと同時に、魏の軍の力も衰えさせることができます」

田忌はこの策に従い、桂陵けいりょうで魏の軍勢を大いに破った。

今度は韓から救援要請がきた

このような経緯を経て、宣王の代に、今度は韓から救援要請がきたのだった。このときも田忌と孫臏はまっすぐ大梁へ向かった。これを知った龐涓は、急ぎ軍を返した。

それを計算に入れたうえで、孫臏は田忌に献策した。

「魏の兵は、もともと勇ましくて気も強く、斉の兵を侮っております。斉の士卒は臆病者ばかりだと。与えられた条件を利用し勝利に導いてこそ、戦い上手というものです。兵法にも、『利をむさぼって百里の道を駆けつづける場合には、すぐれた大将でもつまずく。五十里の道を貪って百里の道を駆けつづける場合には、到着するのは軍の半数』とあります。斉の軍が魏の領内に入ったなら、10万人分のかまどをつくらせ、後退しながら、次の日には5万人分を、また次の日には3万人分をつくらせましょう」

田忌がこの策に従ったところ、龐涓はまんまと引っ掛かった。龐涓は撤退する斉軍のあとを追い続けること3日、日ごとに竈が減っていくのを見て、脱走兵が後を絶たないのだと勘違いをした。勝利を確信した龐涓は歩兵をあとに残し、精鋭の騎兵だけを従え、昼夜兼行で追撃した。