「趙から援軍要請に応えるべきか」

威王の26年、魏の恵王の軍が趙の都、邯鄲かんたんを包囲した。趙から援軍要請がきたので、威王は重臣を集めて協議した。

「援軍を出すのと出さないのとでは、どちらがよかろうか」

威王の問いに、まっさきに答えたのは騶忌子すうきしで、彼は、「出さない方がよろしゅうございます」と言った。

次に発言したのは段干朋だんかほうで、彼は、「援軍を出さないのは信義に外れるうえに、わが国にとって不利でもございます」と答えた。

威王が、「何ゆえか」と問うと、段干朋は次のように答えた。

「利益があるからでございます。南に向かって魏の襄陵じょうりょうを攻めて、魏の軍勢を疲れさせるのがよろしゅうございます。たとえ邯鄲が落城しても、そのとき魏の軍勢は疲れきっているはず、それにつけこんで攻めるのがよいかと存じます」

威王はこの策に従い、桂陵けいりょうにおいて魏の軍勢を打ち破った。

35年、重臣の騶忌子と将軍の田忌でんきの対立が武力衝突に発展し、敗れた田忌は国外へ逃れた。

田忌を上回った孫臏の戦略

36年、威王が没して、子の辟疆へききょうが後を継いだ。これがせん王である。あくる年、魏の軍勢が趙に侵攻した。趙は韓とよしみを結んでいたので、共同して魏を迎え討ったが、勝利を得ることができなかった。そこで韓は斉へ援軍を要請した。

これをうけ、宣王は田忌を呼び戻して将軍の地位に復帰させた。重臣を集め、「急いで援軍を出すのとゆっくり出すのでは、どちらがよいか」とはかったところ、騶忌子は、「援軍を出さないほうがよろしい」と答えた。一方の田忌は、「援軍を出さなければ、韓は弱気になり、魏と手を結ぶでしょう。早く援軍を送るのが得策です」と主張した。

だが、最終的に宣王の心にかなったのは、孫臏そんぴんのつぎのような意見だった。

「速やかに援軍を出せば、わが軍は魏の軍の矢面に立たされます。韓には承諾の返事を与えておいて、ゆっくり援軍を出すのがよいでしょう。魏の軍が疲れるのを待って、それにつけこめば、利益は重く、高い名誉が得られるでしょう」