中国の歴史書『史記』には、秦国の老将軍・白起のエピソードが記されている。歴史作家の島崎晋さんは「長平の戦いでは、降伏した40万人の兵士に対して『皆殺しにしておかなければ、反乱をおこす恐れがある』として、すべて生き埋めにしてしまった」という――。

※本稿は、島崎晋『いっきに読める史記』(PHP文庫)の一部を再編集したものです。

兵馬俑
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噂を広めて敵をあざむく

秦の武王が没すると、異母弟のしょう王が後を継いだ。昭王の代には、白起はくきという武将が活躍した。白起は韓・魏を破って多くの城を奪ったのち、楚に侵攻して都のえいを落とした。このため楚の王は東へ逃げて、陳に都を遷した。

昭王の34年、白起は魏を攻めて13万人を討ち取り、趙と戦ったときには兵卒2万人を溺死させた。43年には韓に攻め入って5つの城を落とし、5万人を討ち取った。

昭王の47年、秦軍は趙の領内に侵攻し、長平ちょうへいで趙軍と対峙たいじした。趙軍を指揮するのは老将の廉頗れんぱだった。廉頗は野戦で敗北を重ねたことから、堅く土城を守って戦わない作戦にでた。持久戦にもちこみ、秦軍の兵糧の尽きるのを待つ作戦である。

秦軍は趙軍が挑発に応じないと見るや、作戦を変えた。間者を放ち、彼らに千金をばらまかせると同時に、噂を広めさせたのである。それは、「秦が何より恐れているのは、今は亡き名将、趙奢ちょうしやの息子、趙括ちょうかつが総大将になることだ。廉頗などは相手にもならない。遅かれ早かれ降伏するだろう」というものだった。

趙の王も、廉頗の軍に逃亡兵が多く、敗北も重ね、しかも守るばかりで出撃しないのを不満として、何度も問責の使者を送っていた。その矢先に噂を耳にしたものだから、心が動いた。老臣で、廉頗と刎頸ふんけいの交わりを結んでいた藺相如りんしょうじょは、「王様は評判だけで趙括を用いようとしておられますが、あれは使い物になりません。趙括は書生の徒で、臨機応変の措置をとることなどできません」と言って反対したが、趙王は聞き入れず、廉頗に代えて、趙括を総大将に任じた。