家康の命を救ったもの

逃避行の最中、家康一行が、落ち武者狩りをねらう百姓たちの襲撃を受け続けたのは事実のようだ。光秀が「家康の首をとれ」という指令を出した、という記録はない。しかし、当時の百姓にとっては、自分たちの村を自衛するための一環として、敵方の逃亡武将すなわち落ち武者を討つことは、慣例だったのだ。

家康の家臣、松平家忠の『家忠日記』には、「此方の御人数、雑兵ども二百余りうたせ候」と記されている。

この記述は、家康に随行する者のうち200余人が討ちとられた、と解釈されることもあるが、正しくは、家康方が襲ってきた雑兵ら200余人を討ちとった、という意味だろう。いずれにせよ、逃げているあいだ中、家康たちがねらわれ続けたということである。

その際、頼りになったのは、逃避行に随行した茶屋四郎次郎だった。信長の横死を早馬で家康に知らせる際、ありったけの金銀を運んできたようで、移動の途中で危険な目に遭うたびに、相手にカネを渡して家康を守ったという。

イエズス会の史料である『日本耶蘇会士年報』や、フロイス報告書『日本年報補遺 信長の死について』などにも、家康方には兵士が多かったばかりか、金銀の準備が十分だったため、敵に襲われても逃げとおすことができた旨が書かれている。この金銀を用意したのが四郎次郎だと思われる。

この当時の落ち武者狩りには、逃亡する武将を倒し、鎧や刀などを剝いで、売却して金品に換えるという目的もあった。だから、金品をあたえることには大きな効果があった。

殺された部下との明暗を分けたもの

ところで、家康は堺で、武田の旧臣で勝頼を裏切った穴山梅雪と一緒に過ごしていた。梅雪も信長に領土保全の礼を述べるために、家康と一緒に安土城を訪れ、その後も行動をともにしていたのである。しかし、家康の伊賀越えには同行しなかった。

穴山信君(梅雪)肖像、1583年(天正11年)作、静岡県静岡市・霊泉寺所蔵(写真=『武田二十四将 信玄を支えた家臣たちの姿』山梨県立博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

『家忠日記』には、梅雪が逃避行の途中で自害に追い込まれたと記されている。また、『三河物語』には、家康に危害を加えられる危険性を感じて別行動をとった梅雪が、宇治田原で落ち武者狩りの餌食になり、討たれたと書かれている。

なぜ、梅雪は命を落とすことになったのだろうか。フロイス報告書『日本年報補遺 信長の死について』には、「三河の国主(家康)は、多数の人々と賄賂のための黄金を持っていた」のに対し、梅雪の周りには兵も少なかったので略奪に遭い、殺されてしまったという旨が書かれている。要するに、家康には兵力と金品があったのに対し、梅雪にはなかった。そこで明暗が分かれたというのだ。

梅雪が命を落としたことからも、「伊賀越え」と通称される逃避行が、きわめて大きな危険をともなったことはまちがいない。「どうする家康」で描かれたように、わずかな同行者しかいなかったとしたら、家康の命も守れなかったのではないだろうか。