織田信長と徳川家康の関係は、一体どんなものだったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「本能寺の変を受けて、家康は信長の仇を討とうとしていた。私怨で信長を恨み、ついには討とうとまで考えた大河ドラマ『どうする家康』の家康像とは、かなりの隔たりがある」という――。
本能寺・本堂
本能寺・本堂(写真=+-/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons

実は家康は信長を追って切腹しようとした

19世紀前半に編纂された徳川幕府の公式記録『徳川実紀』には、いわゆる「伊賀越え」について「御生涯御艱難之第一」と記されている。徳川家康の生涯における最大の危機だったというのである。

このとき危険な状況下に置かれたのは、伊賀(三重県西部)の山を越えていたときだけではない。天正10年(1582)6月2日未明、織田信長が京都の宿所であった本能寺(京都市中京区)を明智光秀の兵に囲まれ自刃に追い込まれてから、家康が6月4日に無事に岡崎(愛知県岡崎市)に帰り着くまでの3日間、家康は生命の危機にさらされ続けた。

むろん、この危機が乗り越えられなければ、のちの徳川幕府もなく、首都の場所もふくめて日本の歴史はかなり違うものになっていただろう。

そもそも家康は『石川忠総留書』によると、信長が横死したと知らされて、ショックのあまり「信長の御恩をかうふり候之上は、知恩院にて追腹可之成」と発言したという。松平家ゆかりの寺である知恩院(京都市東山区)で、みずから腹を切って信長への殉死を遂げようとした、というのだ。

いったんは知恩院に向かいはじめたものの、本多忠勝ら家臣のほか、信長の命で家康に同行していた長谷川秀一らの懸命の説得で、ようやく思いとどまったという。

この逸話からは、家康が信長を敬愛し、2人の関係が良好だったことが伝わる。NHK大河ドラマ「どうする家康」では、家康(松本潤)は妻子を失って以来、ずっと信長(岡田准一)を恨み続け、「信長を討つ」ことだけを心の支えにしてきたことにされていたが、その設定はやはりナンセンスだろう。