ブラパットを担いで飛び乗った夜行列車

幸一は安田の持ち込んできたブラパットを全部仕入れると、夜行に飛び乗って東京へと向かった。東京で売ることで青山商店の機先を制しようとしたのである。

当時の夜行列車は本数が少ないのでいつも混んでいたが、この日は特にひどくてすし詰めだ。ドアに半身を乗り出した乗客が鈴なりで、これ以上乗れそうもない。

普通なら諦めて翌日にしようと思うところだが、幸一は諦めなかった。

開いている窓から、

「すみません、入れてください。すみません!」

とあやまりながら、無理やり身体を押しこんだのだ。

荷物も持っているのだから強引そのもの。並の神経ではできない芸当だ。

乗ったはいいが、座席はもちろん床まで人で一杯である。すると彼はひじ掛けにつま先を乗せ、背もたれにおしりの片方を乗せ、片手で網棚の棒をつかみ、反対側の肩にブラパットの入ったダンボール箱を抱えた格好のまま、東京までの10時間以上を耐えた。

東京駅に着き、八重洲口から銀座に向かって歩いた。東京に慣れていないから、新橋駅で降りたほうが銀座に近いことを知らなかったのだ。

ブラパットを置いてくれそうな店に飛び込み営業をしたところ、どの店でも関心を持ってくれ、飛ぶように売れた。

(これは幸先がええぞ!)

と内心ほくほくしながら、銀座4丁目交差点の服部時計店(現在の銀座和光)の前までやってきた。三越や御木本真珠店の並ぶ銀座のど真ん中である。信号を待っていてふっと交差点の向こう側を見た瞬間、全身に緊張感が走った。

1945年に撮影された、銀座4丁目交差点にある服部時計店(写真=U.S. Army Signal Corps officer Gaetano Faillace/PD US Army/Wikimedia Commons

大切に保管されている「ワコールの原点」

幸一と同じように段ボール箱を持っている男がいる。見たことのある顔だと思ったら、青山商店で番頭役をしている男だ。

向こうはまだ気づいていない。相手の持っている荷物を見て、売っているのはブラパットに違いないと確信した。多分向こうは新橋方面から売り始め、銀座をちょうど半分ずつ販売して真ん中で出会ったに違いなかった。

(今から銀座の残り半分を回っても、すでに彼に先回りされているから売れる数は知れている。それより、東京で銀座周辺の次に売れそうな娯楽の町浅草に行くのが得策だ)

一瞬でそう判断した。

浅草でもブラパットは売れに売れた。

持ってきた分を完売すると、久々の東京であったにもかかわらず観光することもなく、その日の夜行で京都にとんぼ返りし、すぐに安田との間で独占販売契約を結んだ。

今度こそ機先を制することができたのだ。おそらく青山商店の番頭は、その日、この製品が完売したことだけで満足していたであろう。しかし幸一はその先を見つめていた。

今でもワコール本社に「初心忘る可からず 塚本幸一」と書かれた初期のブラパットがガラスケースに入れられて大切に保管されているのは、これがまさにワコールの原点であったからにほかならない。