「それはもう起きたこと」と受け入れる

心理学には「ラジカル・アクセプタンス」という言葉があります。自分のコントロール外で起きたことを、良い/悪いの評価なしに、「それはもう起きたこと」だとアクセプト(受容)する態度のことです。これは、あきらめることとも、許容することとも違います。事実を否認し、過去を認めないと、精神的に大きく消耗してしまいます。事実を受け止めることではじめて、人は対策を取ることができるのです。

自分の言葉が曲げられたことによって審査される事実は私にとって嫌なことでしたが、そのことは私には変えることができません。私にはその事実を受け入れるしかない。事実を受け入れた上で、私がやることはひとつです。医者としての能力を高めていくことしかありません。

ではどうやったら医者としての自分の能力を高められるのか、あらためて考えてみました。臨床現場でよい判断ができるように医学的な知識を持つこと、患者さんのニーズを理解するためにコミュニケーションをとること、頼まれたタスクをしっかりこなすこと。まったく派手な快進撃ではなく、むしろ毎日のコツコツの努力をする以外ないことに気づきました。それを真摯しんしにやり続ける姿を見てもらえばいいんだと。

「努力をし続けるしかない」覚悟を決めて誓ったこと

科の研修医教育の担当者と指導医を前にして、「成長していくのを見せられるように頑張ります。こういう機会を与えてくれてありがとうございます」とミーティングで私は言いました。この言葉を読んで、降伏したのかと思われる方もいるかもしれません。しかし、実際には真逆で、「みてろよ」と覚悟を決めた瞬間でした。

撮影=プレジデントオンライン編集部
「渡米したことを後悔したことは一度もない」と言い切る内田舞さん。それでも、指導教官からのいじめについては、今も消えないトラウマになっている。

審査期間は半年ほどでしたが、10人近くの指導教官が私の臨床能力やプロフェッショナリズムなどを審査しました。いじわるだった指導医はその中には入らなかったことも助かり、最初の1カ月半で、私の様子を観察していた科内の人たちが大丈夫だと思ったのか、私のポジションが脅かされることはありませんでした。

むしろ逆境の中、医師として患者さんのためにいい判断をしたり、授業の中で的確なコメントをして、急成長している私を見て、「精神的にも辛いはずなのに、文句を言わずにまい進している」と多くの指導医や同僚の敬意が向けられるようになりました。

ですが、私にとっては、そのあともずっと疑いの目を向けられるのではないか、観察されているのではないかと全く安心できない日々でした。そこでも、正直なところ、「努力を続ける」という選択肢しか私にはなかったと言えます。