家康が今川を裏切って信長につき、築山殿の父母は自害した

ただし、今川義元が織田信長に討たれた永禄3年(1560)の桶狭間の戦いが、戦国の世を一気に回天させる口火となったように、家康と築山殿という若い夫婦(家族)の生き方をも、大きく変えてしまいました。

東海地方の勢力図が激変し、家康は今川のくびきを身をよじって振りほどくように本拠地岡崎に帰還。さらに信長と同盟し、今川の保護国同然だった三河をわが領国として独立させました。このことは義元の後継今川氏真の怒りに油を注ぎ、築山殿の父母は自害しています。その後、築山殿と息子の竹千代(のちの信康)、娘の亀姫は家康のいる岡崎に移されることになりますが、父母の自害は衝撃的で、築山殿は家康を恨んだことでしょう。夫婦仲はこの時点で決裂したのではないかと思います。駿府から田舎の三河に行かされたことも嫌だったかもしれません。

実は、築山殿の実名はよくわかっていません。大河ドラマ「どうする家康」でも「瀬名」という名で登場しますが、それは江戸も中期になってからの書物に出てくる名前で、家康の故郷である岡崎に移ったときに岡崎城外の、土を盛り上げた地につくられたであろう「築山屋敷」に住まわされたために築山殿と呼ばれることになったのです。

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岡崎城に入れてもらえなかった時点で離縁していたのでは

城内に入れてもらえなかったことをとっても、私は今川との手切れの時点で、事実上の離縁になったのではないかと考えています。

永禄6年(1563)には、それまで「元康」と名乗っていた夫が、今川義元からもらった「元」の字を簡単に捨て去って「家康」と改名。永禄10年(1567)には嫡男竹千代が、築山殿の伯父義元を殺した織田信長の娘である徳姫と結婚。家康はさらに今川氏真を攻めて、戦国大名としての今川家を滅亡させました。

元亀元年(1570)に家康は、旧今川領の遠江国にまで領土を拡大し、元服した信康を岡崎城主に残して、築山殿も置いて浜松に居城を移します。そもそも息子竹千代が元服にあたって名乗った信康の名は、信長の「信」を与えられたものでしょうし、もう築山殿にとっては憤りの連続だと思います。家康と築山殿の仲は、どんどん悪化していったでしょう。

そんなときに築山殿殺害事件が起きたのです。